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#21 シャクシャインの戦いの激戦地 国縫駅(長万部町・函館線)

無人駅めぐり

シャクシャインの戦いの詳細についてはこちらをご覧いただきたいのですが、ここはシャクシャインの戦いで激戦地となった国縫(くんぬい)です。長万部(おしゃまんべ)町にあります。

国縫の語源は諸説あり、「クンネヌイ(黒い野火)」「クンネナイ(黒い・川)」、砂鉄が多くとれたことに由来する「クンネ(黒)」などが挙げられています。また、この付近は砂鉄だけでなく、砂金取りもできたと言われています。砂鉄も砂金もとれた国縫。シャクシャインの戦いで、アイヌの攻撃に対し松前藩軍が後退したものの、ここ国縫を守り切ろうとしたのは、そういった点も関係するのかもしれません。

砂鉄や砂金は、アイヌが取っていたわけではなく主に取っていたのは和人だったようです。そのためここ国縫は砂金取りに携わる和人が多く居住していた場所で、実際に砂金掘りの鉱夫が松前藩軍の中に多数入って戦っていたそうです。松前藩軍にとっては、国縫は人も資源もたくさんある重要な場所だったのでしょう。

シャクシャインの戦いにおいて実際に主戦場となったのは、国縫川の辺りです。かつての国縫小学校の跡地には記念碑も設置されています。その国縫小学校跡から北へ少し歩いたところに、国縫駅があります。

駅舎はとても大きく、風格があります。この駅、今では普通の無人駅に過ぎませんが、昔はこの駅から別の鉄道路線が分岐する主要駅でした。ここから日本海側・瀬棚(せたな)方面へ伸びていた瀬棚線です。函館〜国縫〜瀬棚間には急行「せたな」が運行していました。

国道5号線に出るとバス停があり、現在でもバスでは瀬棚方面・上三本杉からここ国縫を通り、長万部に行く路線がしっかり走っています。瀬棚線が廃線になった際に、その代替として設定されたバス路線です。

瀬棚線が廃止され、かなりの年月が経ちましたが、瀬棚方面からやってくるバスは1日7本もあります。鉄道代替バスというのは年数が経つとどんどん本数が減っていくものが多いですが、今でもこれだけの本数があるのなら立派なものです。

国道周辺には、民家がたくさんあり、しっかり街を形成しています。国縫駅の利用客も多そうな気がしますが、実際の国縫駅の乗車人員は1日3人にも満たないようで、住民はほとんど鉄道を利用しないのだということがわかります。

国縫駅に戻ります。

広い構内、古い木造駅舎と跨線橋。いかにも瀬棚線の痕跡が残っていそうな雰囲気ですが、特に瀬棚線があったことを示すものや、瀬棚線の遺構と考えられるものは見当たりません。

強いて言えば、この大きな駅舎の中にある広い待合室が、かつての繁栄を物語るようです。駅の利用客数に見合わない数のベンチが置かれています。

壁には、かつての出札窓口を板で塞いだ跡のようなものも見てとれます。どの程度の改築かわかりませんが、この駅舎が改築された記録があるのが1939年です。国縫駅での貨物・荷物の扱いがなくなったのが1984年、無人化が1986年、そして1987年に瀬棚線廃止。この駅舎は、国縫駅を取り巻く環境が激変しても、1939年から大きく姿を変えてはいないのでしょう。

蒸気機関車が似合いそうな立派な跨線橋も目をひきます。

2つのホームを行き来するための跨線橋は、階段が木でできていました。大きく立派なつくりであるとともに、歴史を感じさせます。

跨線橋の中は独特な雰囲気。この通路の床も木でできています。よく見ると、屋根の梁には古いレールが使われているでしょうか。それにしても、窓が小さいからか薄暗く閉鎖的です。この中で不意に人と出会ったら、ドキッとするかもしれません。

ホームの端の方は雑草が生い茂っていました。駅の正面は人の気配があっても、駅の裏側は誰も立ち入ることない場所です。

くすんだ色の駅舎は青空に映えます。

駅前にはポストがありました。1日1回集荷に来るようです。

国縫駅周辺は住宅街となっていますし、特に国道沿いは車の音がかなりします。それでも駅は少し奥まった場所にあるので静かです。近代的な住宅が建ち並ぶ中でも、駅舎は昭和の面影を色濃く残しています。

ところで、国縫駅の近くには国縫漁港があります。国縫周辺は遠浅であり、漁港に適さない地形だったため、人工島を作りそこを漁港としました。このような漁港を島式漁港といいます。島式漁港として北海道唯一の存在です。

国縫漁港は、その人工島と、防波堤でワイングラスのような形をしており、かなり面白い見た目をしています。部外者が無遠慮に立ち入るのは良くないような気もしましたが、調べてみたところ一応一般人も入れるようです。近くに行かれた際は覗いてみるのも面白いでしょう。

引用元:Google社 Google マップ

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