PR

北海道開拓の歴史:開拓使・屯田兵・囚人労働

観光・歴史

江戸時代には蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、先住民族のアイヌが暮らしていた北海道ですが、明治時代になるとここを北海道と命名し、本格的に開拓をすることになります。原野が広がるばかりだった北海道を、いかに開拓し、石炭産業や農業で栄える土地にしていったか、ということを紹介します。

日本の近代化を推し進める上で、北海道の資源利用は不可欠であり、これが北海道開拓の大きな動機となったと言われています。広大な大地に大量の天然資源が埋まっている北海道は、富国強兵を目指す明治政府にとってどうしても使わなければならない土地だったのでしょう。

このページでは、北海道の開拓を3つの側面に分けて紹介します。開拓使・屯田兵・囚人労働の3つです。

開拓使

蝦夷地を「北海道」と改名したのは1869年のこと。同年に設置したのが、北海道の開拓を進めることを目的として設置された開拓使(かいたくし)です。欧米の技術者の指導を受けながら、工業・農業・そして交通網の整備、北方警備など、これら全てを任されたのが開拓使でした。開拓次官の黒田清隆は、官営工場・炭山などを整備したほか、後述するクラーク博士の召喚・西洋式農業を導入したことで有名です。

アメリカ人技師の活躍

開拓使を知っておく上で特に注目すべきなのが、欧米の技術者の指導を受けながら開拓したという点です。当時日本は欧米列強に追いつくため富国強兵政策を進めていた時代。軍事面でも北海道の開拓は急務であったほか、北海道に眠る大量の鉱山資源、北海道の厳しい気候などの理由から、優れた欧米式のものをふんだんに取り入れる必要があったのでしょう。特に気候や広い土地などの要素がアメリカに似ており、アメリカ人技師が多数活躍しました。

ウィリアム・スミス・クラーク

「欧米の技術者の指導」の例として最も有名なのが、マサチューセッツ農家大学の学長、ウィリアム・スミス・クラーク(「クラーク博士」・アメリカ)です。クラーク博士を招いて作られたのが札幌農学校であり、クラーク博士の指導により北海道の開拓技術者を養成しました。札幌農学校では、農学校という名前の通り西洋式農業が教育されたほか、工学や英文学、動物・植物学が教えられ、のちに日本を牽引する存在となる内村鑑三や新渡戸稲造などもここで学んだそうです。

また特筆すべきは当時は許されていなかった、聖書を使った道徳教育を行ったことでしょう。これは当時の学生たちに大きな刺激を与えたようです。開拓使の黒田清隆もこれを黙認していました。

一方でクラーク博士のおかげで実際に西洋式農業が全道に広まったか、というとそこまででもなかったようです。やはり明治時代前半はアメリカ人の技術者にこう教わった、といってもなかなか受け入れられない日本人も多かったと言われています。それでも、現在の「北海道らしい風景」はこの頃の西洋式農業に由来するところもあるのです。そして何よりも、クラーク博士によって教えられた開拓の精神は、多くの人の心に響きました。クラーク博士が日本を去る際に残した言葉、「Boys, Be Ambitious(少年よ、大志を抱け)」はあまりにも有名です。

札幌農学校は現在の北海道大学の前身。札幌の発展とともに学校も大きくなりました。

クラーク博士はマサチューセッツ農科大学の学長ということもあり、日本にいたのはわずか1年です。それでもクラーク博士が北海道に、そして日本に残したものはあまりにも大きかったのです。

エドヴィン・ダン

エドヴィン・ダン(アメリカ)は、札幌近郊の牛馬牧場や牧羊場の設置、新冠(にいかっぷ)牧場の整備など、西洋式農業・酪農の発展に携わった中心人物の一人です。真駒内(まこまない)用水路も、エドヴィン・ダンによって作られました。

ベンジャミン・スミス・ライマン

鉱山開発に携わったベンジャミン・スミス・ライマン(アメリカ)も有名です。ライマンの全道地質調査により、日本最大規模の炭田、石狩炭田釧路炭田が作られたのです。

トーマス・アンチセル

トーマス・アンチセルも鉱山技師。地質調査時に、現在の岩内町付近で野生のポップを見つけ、開拓使にポップ栽培を提案しました。それにより、北海道の気候を考慮したドイツ式のビール作りが始まり、1876年にはビールの醸造所・開拓使麦酒醸造所ができました。これが現在のサッポロビールの前身となります。サッポロビールの星のマークは、北極星を表している開拓使の徽章(きしょう)に由来するものです。

交通の整備

次に交通網の整備です。明治時代、日本は高速・大量輸送ができる欧米の画期的な交通システムである、鉄道を日本中に敷こうとしていました。もちろん北海道も例外ではありません。特に、北海道内で採れた石炭を、港を経由して本州に輸送すべく、急ピッチかつ大量に鉄道路線が敷かれました。北海道最初の鉄道は、手宮(現在の小樽)ー札幌間の官営幌内鉄道です。その目的はもちろん石炭の運搬でした。

官営幌内鉄道は、日本国内3番目の鉄道。いかに北海道に鉄道を敷くことが重要視されていたかがわかりますね。

開拓使による交通網の整備が、石炭産業の発展、ひいては北海道の発展に大きく貢献したことは言うまでもありません。もちろん、炭鉱そのものの開発に携わったのも開拓使です。

屯田兵

北海道の開拓と国防。この2つの目的で北海道に送られたのが屯田兵(とんでんへい)です。

禄を失った士族が屯田兵に

実は屯田兵は当時全く新しい概念、というわけではありませんでした。中国に似た制度があり、これに倣ったのです。基本的には1つ目の役目、開拓に従事しますが、有事の際は軍隊となって戦う。そんな役割を担っていました。

当初、屯田兵として送られたのは士族です。江戸時代に武士だった人たちは、明治時代になると士族と呼ばれるようになるわけですが、四民平等政策により禄を失ってしまう(すなわち、失業してしまう)士族が続出することになりました。そんな士族たちに仕事を与える、そんな目的もあり、士族を屯田兵として北海道に送ったとされていますが、力のあるかつての「武士」を北に追いやり、新政府への抵抗を防ぐ目的もあったのかもしれません。

最初の屯田兵村は札幌の琴似(ことに)にできました。その規模は208戸。その後屯田兵は平民に対しても募集がされ、最終的に作られた屯田兵村は37、入植者は4万人と言われています。

開拓と国防

主に屯田兵としてついた士族は、戦いの経験はあっても、農業は初めて。それに加え寒さも激しく厳しい気候の北海道でやる農業は、想像を絶する大変さであったことは言うまでもありません。最初は北海道でどんな作物が育つかさえもわからないのですから。今では北海道の名産となっているじゃがいもや大豆なども、そのベースを作ったのは屯田兵の農業。今の北海道の豊かな農作物は、屯田兵のおかげでもあったりするのです。

また国防という役割も、常に意識させられるものでした。毎日軍事訓練が行われ、実際に日清戦争日露戦争などでも、屯田兵が駆り出されています。

ちなみに、日露戦争での屯田兵の活躍はかなりのもので、特に日露戦争における最後の大規模な戦いと言われる奉天会戦への貢献は大変大きいものでした。北海道の農業のベースを作ったことだけでなく、日露戦争でも大活躍したことで、屯田兵制度が終了した後も、もともと屯田兵だった人たちは尊敬の目を集め、北海道各地で住民を率いる存在となったようです。

囚人労働

監獄不足

話は少し変わりますが、明治時代初期には自由民権運動が起こっていました。自由民権運動は、明治7年に国会の開設を求めて始まり、地租(税金)の低減や言論の自由、明治初期に結んだ不平等条約の撤廃などを求めた運動です。そしてその運動は激化し、佐賀の乱(明治7年)、西南戦争(明治10年)など、士族による反乱が各地で起こっていました。そんな反乱に携わった人は国賊として逮捕され、監獄に入れられます。また、それら反乱の影響を受けて困窮した国民の中にも、犯罪に手を出してしまう人が後を絶たなかったようです。こういった人たちも監獄行きになっていました。

ということで、この頃は、日本各地の監獄が囚人でいっぱいになってしまっていたのです。

囚人を北海道開拓の労働力に

一方で先述の通り、日本の発展のため北海道開拓は急務。そこで、監獄の囚人を北海道開拓の労働力として利用することを考えました。まず北海道に集治監(囚人の収容施設)を設置し、そこに囚人を移します。

囚人を北に追いやって隔離するだけでなく、北海道開拓のために働かせることができる。おまけに監獄が囚人でパンク状態な件も解決できる。それに加え、囚人が出所した後も北海道に定住してくれたらなお素晴らしい。囚人を北海道開拓に利用することは、こういった複数のメリットを抱えていました。

5つの集治監

はじめに建設された集治監は樺戸(現在の月形町)で、明治14年(1881年)の建設。その後に空知(三笠市)、釧路(標茶町)、網走(網走市)、十勝(帯広市)の順で作られました。それぞれの場所に囚人が送られ、その付近の開拓に従事させます。樺戸、網走の囚人には道路整備・鉄道整備を、空知の囚人には道路・鉄道整備のほか幌内炭鉱の開発を、釧路は硫黄山の開発、帯広は農地開発などがそれぞれ割り当てられていました。

勘のいい方はお気付きでしょうが、この時網走に設置された集治監、「釧路監獄暑網走囚徒外役所」が、現在の網走刑務所の始まりです。この5つの集治監、樺戸・空知・釧路・網走・十勝の中でも網走が圧倒的に有名ですね。

囚人が建設した中央道路

中央道路とは、札幌〜旭川〜北見〜網走を結ぶために作られた道路です。このうち札幌〜岩見沢は囚人が建設した区間ではありませんが、岩見沢〜旭川〜北見〜網走は空知や網走の囚人が作りました。そのため、中央道路には「囚人道路」の別名があります。現在でも当時の囚人道路のルートは(一部を除き)残っており、岩見沢より少し北の三笠〜旭川は国道12号、旭川〜北見〜網走は国道39号が囚人道路のルートになります。

引用源:Google社 Googleマップ

多数の犠牲者を出した囚人による開拓

「囚人道路」の建設をはじめ、囚人に課された労働は過酷なんていうレベルのものではありませんでした。「囚人なのだから、労働によって亡くなったとしても監獄費の節約になる」とまで考えられていた時代です。その悲惨な実情は現在の網走市にある「博物館 網走監獄」や月形町にある「月形樺戸博物館」で具体的な展示がありますから、そこで学ばれるといいでしょうが、ここでも少しだけその悲惨さに触れておきましょう。

まず未開の土地、特に囚人道路は山奥の場所もたくさんありましたから、食料の運搬もままなりません。当然栄養失調者は続出します。そして求められたのは人力のみでの建設、さらに工期は無茶なほど短く、休む間もなく危険な重労働を強いられたようです。ヒグマやオオカミの恐怖もある中で、大量のブヨやヌカカは絶え間なく襲ってくる状態、あまりにも劣悪な環境だったため、病気や怪我を負って犠牲になった人の数は、その実態がわからないほどと言われています。

この状況だったのは、労働力だった囚人だけではありません。看守もこの劣悪な環境に置かれていたことは紛れもない事実で、看守の犠牲者も出ていたようです。

囚人労働の廃止

この状況に国会で一石が投じられ、囚人労働が廃止されたのは明治27年(1894年)。網走の集治監も、明治36年(1903年)には「網走監獄」の名前になり、凶悪犯が送られる監獄として知られるようになります。ちなみに網走監獄は、のちに網走刑務所となるわけですが、今の網走刑務所は凶悪犯ではなく軽犯罪人を収容する刑務所となっています。

タイトルとURLをコピーしました