「オホーツク地方」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。 オホーツク海の流氷、網走監獄、あるいは北見の焼肉やハッカ、いやあの「オホーツクに消ゆ」を思い浮かべる人もいるでしょう。
北見・網走などオホーツク地方のイメージとして、あんまり明るいイメージを持つ人は少ないかもしれません。北海道の果てにある、冷たいオホーツク海のイメージが作り出す物語は、「オホーツクに消ゆ」からもわかるように、やっぱり楽しい!キラキラ!みたいな感じではないのでしょう。ただ、そんなイメージが独特の存在感を放ち、たくさんの観光客を惹きつけていることも事実です。
これまでの記事で、北海道の主要都市(札幌・小樽・函館・旭川・帯広・釧路)の歴史を見てきました。これらを読んでこられた方は、それぞれの都市が驚くほど違う色を持った都市だ、ということがよくお分かりいただけたかと思います。
そして、道東・道北の境目に位置する北見・網走地域が開拓されたロジックも、また他の地域とは異なります。
さて、今回は、北見・網走の歴史を読み解いていきましょう。
本当の「北海道の果て」は北見や網走だった
物語の始まりは明治20年代(1880年代末)。当時の日本政府(明治政府)が北方警備のために北海道開拓に力を入れていたのはこれまで散々書いてきた通りですが、北海道の中でも北見・網走は「最果て中の最果て」でした。
現代の感覚だと「いや、最果ては稚内でしょ?一番北なんだから」と思うかもしれません。でも、よくよく考えてみると、明治時代の感覚では、稚内はさほど最果てではないことに気づくでしょう。
想像してみてください。道路も何にもない未開の土地だった北海道。探検するとしたらどこからやりますか。まずは海沿いでしょう。よし、未開の土地を探検しよう!となっていきなり内陸の深い山岳地帯、深山幽谷の中に突入していくことはほとんどありません。まずは遭難リスクの少なく歩きやすい海岸線沿いに歩き、全体像を掴もうとしますよね。
北の果てにある稚内は、海岸線沿いを普通に北上していけば比較的たやすく辿り着いてしまうのです。一方の北見や網走は、北見山地というあまりにも険しく大きな山地を突っ切らないと辿り着けません。もし海岸沿いを歩くだけで北見・網走へ辿り着こうとすれば、最北端・稚内を経由してぐるっと回るか、もしくは南に突き出た襟裳岬を経由して、最東端の根室半島を通って知床半島を通って、とひどく大回りをしないと辿り着けません。北見・網走などのオホーツク海側は、地理的にもう果て中の果てなのです。
ですから、北海道の開拓が進んでも、北見・網走方面につながる道路は一向にできませんでした。稚内方面など、他の地方へはさっさと道路が伸びて開拓が進んでも、北見や網走に開拓の手を伸ばすことは至難の業でした。でもだからといって、北見や網走地区を原野のまま放置していいわけではありません。国防上も開拓をしないといけない場所であることには変わりありません。
道路建設のための網走への刑務所設置
そんなわけで、「一刻も早く、旭川から北見・網走方面(オホーツク海)を結ぶ道路を造らねばならない」これが国家の至上命令でした。しかし、先述の通り、旭川とオホーツク方面を結ぶには巨大かつ険しい北見山地を突っ切らないといけません。巨額の予算を要しますし、普通に工事したらものすごく長い時間を要します。その解決策として政府が目をつけたのが、全国から集められた重罪人や政治犯——すなわち「囚人を労働力として使うこと」でした。これについては以下の記事に詳しく書いています。

1890(明治23)年、網走に刑務所が設置され、膨大な数の囚人がこの地に送り込まれます。わざわざ最果ての地・網走に巨大な刑務所を作り、大量の囚人を送り込んだ目的はただひとつ。旭川から北見・網走(オホーツク)へ至る「中央道路(北見道路)」の突貫工事です。
中央道路の工事は、現代の常識では考えられないペースで進められました。施工距離は旭川〜北見〜網走間の約160km、その工期はなんとわずか約8ヶ月です。
深い原生林、熊の恐怖、過酷な寒さ、そして足枷をつけられたままでの夜昼を問わぬ労働。満足な食事や医療も与えられず、脚気や栄養失調が蔓延し、囚人や看守には犠牲者が多く出ました。その悲惨な歴史は「博物館 網走監獄」で学ぶことができますから、ぜひ行かれてみてください。
人道的には凄惨な負の歴史ですが、国家の論理として見れば「短期間でオホーツクへの導線を確保した」ことになります。そしてこの「多くの犠牲の上に削り出された1本の道路」こそが、北見盆地に劇的な変化をもたらすことになります。
道路が拓いた内陸盆地:北見における「ハッカ」との出会い
道路が通ったことで、それまで人が入ることすら難しかった北見盆地へのアクセスが一気に開けました。明治末期から大正時代にかけて、屯田兵や一般の開拓民がこの地に入植を開始します。
しかし、ここで新たな問題に直面します。 「北見は寒冷で、米や一般的な作物の育成が極めて難しい」という現実です。
そこで注目されたのが、寒冷な気候と乾燥した気候を好む「ハッカ(薄荷)」の栽培でした。ハッカには、開拓地において決定的な優位性がありました。それは、軽くて高価値であることです。葉を蒸留して「ハッカ油」に精製すれば、容量が劇的に小さくなり、価値が高くなります。これにより、「北見」という当時の「僻地」ならではの輸送問題を低減することができました。当時、いくら中央道路が開通したといっても、北見・網走などの道東の輸送インフラはまだまだ貧弱でした。それでも、軽量なハッカ油ならば遠方へも容易に運べたのです。
北見ハッカは瞬く間に世界を制した
そんなわけで北見はハッカの生産が増えていき、昭和初期(1930年代)、北見のハッカ産業はピークを迎えます。
なんと、当時の世界市場におけるハッカの約70%が「北見産」で占められるという、日本の農産物史上でも類を見ない快挙を成し遂げたのです。
世界中の薬品、化粧品、煙草、お菓子に使われるメントールが、北海道の小さな盆地から輸出されていました。北見の街にはハッカ成金が誕生し、北見駅前には巨大なホクレンの蒸留工場が建ち並び、街中に甘く清涼な香りが漂っていたと言われています。もともとオホーツクの僻地であり、足を踏み入れる事さえ難しかった北見は、ハッカの生産で世界を制し、潤うこととなるのです。このことは北見にとんでもない影響をもたらします。
北見のインフラと金融の飛躍(オホーツクの中心都市へ)
ハッカ油を効率よく世界へ輸出するため、北見駅前には巨大なホクレンのハッカ工場が建設され、鉄道網も急速に整備されました。ハッカ取引による莫大な資金を扱うため、多くの銀行が進出し、北見は一躍「オホーツク最大の経済都市」へと躍進しました。最初に刑務所が置かれた網走よりも、そして海に面している(=港を持てる)網走よりも、北見の方がグッと成長したのはこのためです。今でも北見は、オホーツクの中心都市として、網走よりもはるかに立派な市街地を形成していますよね。
「北見焼肉」もここから生まれた
ハッカで潤った北見には、全国から多くの労働者や商人が集まりました。戦前・戦後を通じてエネルギーを求める労働者の街となったことで、安価で質の良い内臓肉(ホルモン)を食べる文化が定着し、これが現在の「人口あたりの焼肉店数が北海道一」と言われる北見焼肉文化の基盤となりました。
「北見」という都市名の誕生
もともとこの地は「野付牛(のつけうし)」と呼ばれていました。しかし、ハッカ輸出で世界に知られたこと、そしてオホーツク全体の拠点都市としての格を得たことから、1942(昭和17)年の市制施行にあわせて、旧国名(北見国)をとった「北見市」へと改称されました。
合成ハッカの衝撃と北見ハッカ産業の衰退
と、一度は世界を制した北見ハッカですが、昭和30年代(1960年代)に入ると急激な衰退の波に呑まれます。これもまた、技術と貿易のロジックによるものでした。原因は主に以下の3点です。
- 安価な輸入ハッカの台頭:ブラジルや中国などで安価な天然ハッカが大量生産されるようになった。
- 合成ハッカの開発:石油化学工業の発展により、安価な人工メントール(合成ハッカ)が製造可能になった。
- 貿易自由化:1960年代の輸入自由化により、価格競争力を失った北見のハッカ畑は一気に姿を消していった。
1983(昭和58)年にはホクレンの北見ハッカ工場が閉鎖され、世界を席巻した大規模産業としてのハッカの歴史は静かに幕を閉じました。
それでも、かつてハッカ産業で栄えた都市としての格は揺るぎなく、今でもオホーツク圏では最大都市として輝いています。観光としては刑務所があり、流氷観光もある網走の方が栄えており、もしかしたら「都会」というイメージを持つ人も少ない場所かもしれません。しかし街を歩けば北見は大都会です。稚内や網走、紋別等とは比べ物にならないほど巨大なビルがずらっと並び、数多くの車が行き交っています。北海道のこんなところにこんな大都会が!と思うほど、北見は今でも栄えています。なんでって、そう、ハッカ産業の名残です。


まとめ:光と影が織りなすオホーツクの歴史
こうしてみると、北見・網走の歴史は、決して単なる「田舎の開拓記」ではありません。
- 国防という大義のもと、囚人たちの犠牲によって強行された「中央道路」の開削(影)。
- その道路によって拓かれた土地で、環境の不利をはね返して生み出された「世界一のハッカ産業」(光)。
「過酷な道路開削という『影』があったものの、それが世界を制したハッカの『光』を生み出した」というこの不可分の文脈こそが、オホーツクの歴史における深みではないでしょうか。他の都市の歴史は1つずつ記事にしてきましたが、北見・網走をまとめて1記事としたのはこのためです。
網走監獄を訪れるとき、そして北見でハッカの香りに触れるとき。そして北見の都市としての格を垣間見た時。この1本の道路が結んだ歴史のロジックに思いを馳せてみると、道東の風景が全く違って見えてくるはずです。


