人口30万人を擁する北海道第二の都市・旭川ですが、明治時代には、旭川に天皇の別邸・離宮を建設し、北海道の中心にするという壮大な国家構想が存在していました。
いまでこそ北海道の中心は札幌であり、これを疑う人はいないでしょう。しかし、北海道最大の都市は旭川になると真面目に考えられていた時代すらあったのです。
今回はそんな旭川の歴史を、北海道開拓や、函館や札幌などの他の都市の発展と関連づけて紐解いていきます。あまり知られていない「幻の未来」である「上川離宮」構想と、「北の都」計画についても触れていきましょう。
「北海道の中心は札幌にする!」といいながらも????
現在の感覚だと、北海道の中心が札幌、ということは当たり前に思えます。しかし実は、札幌が北海道の中心都市として本格的に位置付けられるまでには、かなり長いプロセスがありました。
北海道開拓に伴い、北海道の中心は函館から札幌へ
江戸時代末期まで、北海道最大の都市は函館でした。だってそれもそのはず、当時(江戸時代)の北海道は、大部分で先住民であるアイヌ民族が暮らしており、和人が主に住んでいたのは函館などの道南です。これだけでも函館が北海道の中心地となるのに十分すぎる状況ですが、1854年に日米和親条約で函館港が開港し、さらに1858年の日米修好通商条約で函館港が本格的に国際港として機能するようになると、函館は急速に発展し、その地位をさらに確固たるものにしていくのです。
一方の札幌はといえば、当時(明治初期)はほぼ「何もない原野」だったのです。しかし、明治政府は北海道の開拓にあたり、当時何もなかった札幌を北海道の行政中心にします。この辺りの背景などは以下の記事に書いていますので、そちらを参照ください。

札幌はゼロから作られた。だから・・・
実際に「札幌」という町の建設が始まったのは、1870年ごろのことです。ですが、上の記事にも書いてあるように、札幌は何もない原野を切り拓いてゼロから建設が開始された都市です。いいですか、いくら札幌が北海道の中心だ!!!と偉い人が豪語しても、何もないところにゼロから建設するわけですから、すぐに立派な町や道路ができるわけないですし、すぐに北海道の中心として機能を果たせるわけがありません。
したがって、この時まだ、本当に札幌が北海道最大都市になるのかは未知数でした。だって当時の札幌は人口も少なければ、港もなく、道路もろくにできておらず、それゆえ物流も乏しかったのです。しかし、港がない札幌と言っても、「札幌」というまち建設するため、なんとかして札幌にヒト・モノ・カネを運ばないといけません。そこで、札幌から40kmほど西にある小樽港を経由して札幌にヒト・モノ・カネを運ぶようになるわけですが、これによってすぐに「札幌が発展して北海道の中心へ!」という状況になったか、というとそう簡単にはなりませんでした。
もちろん、小樽港のおかげで札幌に人が集まり、ものが集まり、札幌が急速に発展したのは事実です。しかし、それ以上に中継地点の小樽がものすごく栄えたのです。札幌の「港」として金融・物流機能が集中し、札幌よりも小樽の方が遥かに大きな経済規模を持つ町となったのです。この辺りについて、詳しくは以下の記事に書いています。

つまりこの時代の北海道は、札幌を北海道の中心にする、とはいいながらも、国際港として栄える函館や、商都の小樽が強い存在感を放ち、実際は函館・札幌・小樽の「三極状態」だったのです。
上川盆地の発見と旭川の発展
開拓の拠点として
北海道の開拓が進み、1880年代以降になると、政府や探検家たちは旭川周辺に広がる上川盆地の重要性に注目し始めます。内陸部に広がる広大な平野は、北海道では珍しく肥沃で、豊富な水資源に恵まれています。さらに北海道の中央部に位置し、まだあまり開拓の進んでいなかった北海道の東部や北部へアクセスする上での一大拠点とできそうな場所です。札幌と北海道北部・東部を結ぶ「中継点」としての見方も出来ます。北部・東部の北海道開拓の上で、上川盆地は極めて重要な拠点と考えられたのです。
軍事拠点として
ところで、北海道開拓を担っていた屯田兵の仕事は、北海道の開拓だけではなかったですよね。同時に国防の役目も担っていました。上川盆地も同じように、開拓の拠点としてだけではなく、軍事拠点としての役割も期待されていました。北海道の中央部に位置し、北部や東部へのアクセスに優れている上川盆地は、国防上も重要な拠点と評価されたのです。
上川盆地が軍事拠点として優れている点はほかにもありました。内陸部だということも大きな要素です。沿岸は他国の艦隊からの攻撃を受けやすく、軍事拠点としてはふさわしくありません。先ほどの話を思い出して欲しいのですが、当時北海道で栄えていた3つの都市は函館・札幌・小樽でしたよね。函館と小樽は、ガッツリ港町ですからふさわしくないですし、札幌はといえば、これも先述したように小樽と非常に強固な結びつきがあります。札幌自体は海に面していないものの、経済的には海に面しているようなものです。そうやって考えると、当時栄えた函館・札幌・小樽は軍事拠点としてふさわしくなく、新しく発見された上川盆地に期待がかかったのです。
もう一つ書きましょう。軍事拠点にするためには、多くの人がここで生活する必要があるわけですが、先ほども書いたように、上川盆地は比較的肥沃な土地が広がり、農業に適しています。つまり、軍事拠点としてたくさんの人が駐在しても、農業によって食料を得ることができるので、基本的に食べ物に困らないのです。
1896年には、日本陸軍第七師団が上川盆地の旭川に設置され、旭川はれっきとした「軍事拠点都市」となり、何もなかった旭川は急成長していくことになります。旭川には大量の人が住むようになり、インフラや行政機能も発展しました。
急成長した旭川に生まれた「上川離宮」構想
「上川離宮」構想が生まれた背景
旭川の発展のきっかけは、軍事拠点として大量の人口・インフラ・行政機能が流入したためであることは、先に述べたとおりです。
この頃から、鉄道網も旭川を中心に整備され始めます。宗谷方面、オホーツク方面へのルート、富良野方面への接続など、旭川は徐々に「北海道内陸交通の中心」になっていき、次第に「北海道の本当の中心は旭川なのではないか」という思想が生まれてきます。
実際、旭川は、純粋に北海道中央部を押さえる位置にあります。さらに農業生産力が高く、水資源も豊富。建築などに使う良質な木材も豊富です(これがのちの旭川家具の発展につながります。詳しくはこちら)。旭川は「なんでも自立できる都市」として評価され、防衛・農業・交通・内陸開拓の全てを担うことを期待され始めたのです。もはや1つの地方都市としての機能を超える役割を期待されるようになります。
それが、「北の都」という発想でした。東の京都が「東京」なら、ここ旭川を北の都「北京(ほっきょう)」にしよう、という発想です。東京が日本全体の中心であるなら、旭川は「北方経営の中心」になりうるのではないか。農業の中心地、交通の中心地、防衛の中心地、そしてさらに象徴とするように皇居を旭川に作り、旭川を北日本の象徴都市へ育てようとする空気が、当時確かに存在していたのです。これこそが「上川離宮」構想です。
このように書くと、「離宮って天皇の別荘のことでしょ???なるほど、わかるわかる、東京は暑いから避暑地として旭川に別荘でも欲しいよね!」なんて思ってしまう人もいるでしょうが、実はそういうことではないのです。当時、皇室施設とは、「国家中心性の象徴」でした。上川離宮構想は、旭川を国家的中枢へ格上げし、北日本の中心として象徴づける、というすっごくすっごく大きなことなのです。
あくまでも構想で、具体的な話にはならなかった
まあ、とは言っても、実際には正式な建設計画として具体化したわけではありません。しかし、明治後期から大正初期にかけて、上川地方に皇室関連施設を設置しようという構想そのものは、確かに存在していました。
候補地として考えられていたのは、主に旭川周辺の、とりわけ現在の神楽岡周辺だったとされています。神楽岡周辺は旭川市街地を見渡せる地形を持ちながら、石狩川水系にも近く、景観的にも優れていました。しかも当時の旭川市街地から一定の距離があり、静養地としての性格を持たせやすかった、というのもあるでしょう。
実際、当時すでに北海道には函館や小樽のような港湾都市が存在し、景観だけなら他にも候補地はありました。それでも内陸の上川が注目された理由は、北海道の中心で、「北海道経営の象徴」としての意味合いが強かったからです。
「上川離宮」構想が実現しなかった理由
ご存知の通り、この構想は実現しませんでした。
最大の理由は、20世紀に入る頃には、札幌の優位性が決定的になっていたからです。
ほら、さっきも書いたじゃないですか。上川離宮構想ができたのは、当時は札幌の影響力が弱く、函館・札幌・小樽の三つ巴状態だったから、北海道の中心として旭川を!!!という動きが出たわけです。しかし、20世紀になると、札幌が完全に北海道の中心になり、もう札幌一強状態へと固定化されていったのです。鉄道網、行政機能、大学、報道機関、企業などは札幌に集中し、「北海道の中心=札幌」は誰もが疑わない確固たるものとなりました。
先ほど旭川は内陸だから軍事拠点として評価された、という話をしました。確かに内陸だから港はないものの、港がなくても農業もできて木材もあって、自立できる都市だったというわけなのですが、やっぱり港を持たない旭川は、内陸拠点としては優秀でも、北海道全体を統括する都市としては限界があったんですよね。
さらに、軍事拠点としてもあまり重要ではなくなってきます。日露戦争後には日本の勢力圏そのものが北へ拡大するからです。北海道内陸を「防衛拠点」とするには国境から遠すぎる、という形にもなってくるのです。
その結果、「北の都・旭川」構想も、「上川離宮」構想も、次第に現実性を失っていったのです。
それでも現在の旭川には、どこか「計画都市的」な空気が残っています。広い道路、整然とした区画、大きな都市骨格。それらを見ると、この街がかつて、単なる地方都市以上の役割を期待されていたことが、なんとなく伝わってくる気がしますね。

