五稜郭って何?五稜郭の歴史・星型の理由を分かりやすく解説!

北海道・函館市にある五稜郭をご存知ですか。

五稜郭って、あの星形のやつでしょ?なんか戊辰戦争に関連するやつでしょ?新撰組好きなんだよねー、土方歳三かっこいいよねーなんて、大体の方がふわっとしたイメージはあるかもしれません。でも、五稜郭とはそもそも何か、なぜ作られたのか、なぜ星形なのか、いざ聞かれてみればわからない、という方も多いのではないでしょうか。

この記事では、五稜郭とはそもそも何か?なぜ星形か?ということを、五稜郭の歴史を軸に分かりやすくご紹介します。

目次

五稜郭ってそもそも何?

まずはここから。五稜郭は、一言で言えば「城」です。

日本における城の起源は弥生時代とも言われており、いろいろな時代に作られたものがありますが、五稜郭は江戸時代末期に作られた城です。

単に城といっても、「江戸城」「姫路城」など有名な城はたくさんありますが、五稜郭ってなんか普通の城と違わない?と思うでしょう。そうです、五稜郭は、日本風の城ではなく、西洋風に作られた城なのです。

ではなぜここに城が作られたのか、そしてなぜ西洋風なのか、などを、歴史から紐解いていきます。

五稜郭の歴史1:五稜郭はなぜ作られた?なぜ星形?

五稜郭が作られた理由は、箱館奉行所を守るため

五稜郭は、江戸幕府の役所である箱館奉行所を守るために、江戸時代末期1864年に建てられたお城です。箱館奉行所は、江戸時代後期になって設置された役所です。当時鎖国体制をとっていた日本でしたが、外国船が近づくことが増え、北方警備の重要性が高まります。そんな背景から、北方警備並びに外国との対外折衝を担う機関として、江戸後期になってこの場所に奉行所が必要になったのです。

実際、五稜郭に観光に行くと、中心に箱館奉行所の建物がありますよ。本物ではなく、復元されたものですけどね。

五稜郭が星形の理由は時代背景にあり

五稜郭が作られようとしていた当時は、1853年のペリー来航、1854年の日米和親条約の締結など、ずっと鎖国をしていた時代が終わりを迎え、諸外国に開かれようとしていた時代。同時に欧米列強の力の強さを感じ、外国からの攻撃を恐れていた時代でもあります。

五稜郭の建立は1864年と書きましたが、実際五稜郭の工事が始まったのは1857年。まさに外国に攻め込まれる危険性を感じていた真っ最中だったのです。

そこで、五稜郭を作る際は敵国に攻め込まれにくい形が求められました。箱館奉行所で働いていた蘭学者・武田斐三郎 (たけだあやさぶろう)が、箱館港に入港していたフランス軍艦に乗っていた軍人からヨーロッパの「城塞都市」の話を聞きます。その中で、星形の城郭が敵からの防御に適していると学び、この五稜郭を星形で建設することを提案したと言われています。

というわけで、このような星形の城郭は、世界中にたくさんあります。日本ではここ五稜郭を含めて2箇所しかない珍しい形なのですがね。

本当に星形は防御に適している?

五稜郭が星形なのは、当時の時代背景から防御に適した形にする必要があったため、ということを述べました。では本当に星形は防御に適しているの?具体的にどう適しているの?ということに、もう一歩踏み込んでみます。

防御に適している、ということは攻められた時に反撃しやすい、ということです。五稜郭が作られたのは江戸時代ですから、もう戦国時代のように刀を持った兵が攻めてくる、というスタイルではありません。そう、攻撃される時も、そして反撃する時も大砲が想定されていました。

例えば丸型の城壁の場合、反撃をする際にどうしても死角ができてしまいます。また反撃できたとしても、1方向からです。

しかし星形であれば、そのような死角は生まれず、また常に2方向以上からの攻撃が可能です。星形は、攻められた時に反撃しやすい形なのです。

五稜郭の歴史2:五稜郭と戊辰戦争との関係は?

あれ、五稜郭って土方歳三とか戊辰戦争とか、そういうのと関係があるんじゃないの?何にも関係ないただの城なの??と思うかもしれません。もちろん関係はあります。簡単に言うと、戊辰戦争の流れの中で、江戸幕府軍(旧幕府軍)が五稜郭を占拠していた時期があったのです。それでは戊辰戦争の流れを見ていきましょう。

戊辰戦争

戊辰戦争は、江戸時代末期、江戸幕府軍(以下、旧幕府軍と呼ぶ)と、明治政府を作ろうとした新政府軍との戦いの総称です。戊辰戦争の開戦から、終戦までの簡単な流れは以下の通りです。

鳥羽・伏見の戦い

1868年1月、旧幕府軍が大阪から京都に進軍します。旧政府軍の兵力は15000ほど、京都で待ち構えていた新政府軍の兵力は5000ほどでしたが、新政府軍の新兵器に苦しみ、敗退。新政府軍の勝利に終わります。

江戸城無血開城

鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍の敗退を受け、徳川慶喜は大阪城を脱出し、江戸へ逃亡し、上野の寛永寺で謹慎生活を送ります。

しかしこれを聞きつけた新政府軍は、江戸を攻撃することを決意します。西郷隆盛が江戸に総攻撃を計画しますが、これに対し旧幕府軍の勝海舟が西郷隆盛と交渉。江戸城を明け渡すことを条件に、江戸への総攻撃をやめさせます。一滴も血が流れることなく、江戸城が新政府軍のものになりました(江戸城無血開城)。

その後も続く旧幕府軍の抵抗

ここまでの流れから、旧幕府軍の力はどんどん弱くなっていきますが、それでも旧幕府軍の抵抗は終わりません。特に東北地方では旧幕府軍の有力藩が団結して(奥羽越列藩同盟を結成)新政府軍と戦います。しかし東北でも旧幕府軍は苦戦することとなります。

これを受け榎本武揚を中心とした旧幕府軍が江戸を脱出すべく、8隻の艦隊で江戸湾を出て、太平洋を北上します。途中、仙台で同じく旧幕府軍である土方歳三などを乗せて蝦夷地(北海道)へ逃げることになります。これにより、旧幕府軍と新政府軍の戦いの舞台は北海道へ移り、戊辰戦争最後の戦い「箱館戦争」へ突入します。そして箱館戦争でも新政府軍が勝利し、戊辰戦争は終結することになります。

箱館戦争

以上の流れが戊辰戦争全体の流れですが、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争について、ここでは深掘りします。なお、箱館は現在の函館と同じ場所を指しますが、当時の表記は「箱館」でしたので、ここでは「箱館」に表記を統一します。

旧幕府軍の北海道逃亡と「蝦夷共和国」建国

榎本武揚を中心とした旧幕府軍艦隊が、途中、土方歳三などを乗せて北海道へ逃げてきたことは先に述べました。この艦隊は、榎本を中心とする江戸を出た組と、土方を中心とする東北の脱走兵を合わせて2000人もの規模となり、1868年10月20日に北海道の鷲の木村に上陸します。現在の八雲町のあたり、つまり箱館(函館)よりも70kmくらい北にある太平洋沿い(噴火湾沿い)になります。

蝦夷地に上陸した旧幕府軍は、箱館方面へ南下。箱館府兵を次々と破り、10月26日に五稜郭を占拠し、ここを拠点に箱館を占領します。当時、北海道というのは箱館以外は未開の地であり、箱館を占拠するというのは北海道全体を占拠したのとほぼ同じなのです。旧幕府軍は、12月15日、全蝦夷地を領有したことを宣言し、「蝦夷共和国」を建国します。蝦夷共和国では、日本初の総裁選挙が行われ、榎本武揚が総裁に選ばれました。

箱館戦争と「蝦夷共和国」終焉

ところが、そんな蝦夷共和国も長くは続きません。当然のことながら、「蝦夷共和国」は旧幕府軍に他なりません。新政府軍はこれを滅ぼしにいきます。

1869年春になると、新政府軍が蝦夷地に上陸し、旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まります。これが箱館戦争です。旧幕府軍の降伏は5月18日のこと。蝦夷共和国は、わずか5ヶ月ほどで消えてしまったのです。もちろん、蝦夷共和国の拠点であった五稜郭も新政府軍のものとなりました。

蝦夷共和国が残したもの

蝦夷共和国は、わずか5ヶ月しか存在しませんでしたが、それでも後の新政府、明治政府の考え方に大きく繋がったものがあります。

先に述べたように、榎本武揚らは江戸を出て北海道へ逃げようとしたわけですが、なぜ北海道を目指したのか、ということには疑問符が残るかもしれません。これについてはいくつか説があるのですが、「蝦夷地の開拓」を基本理念としていたと考えられています。

もう榎本らが北海道へ逃げる頃には、旧幕府軍の劣勢は分かりきっていました。大政奉還により、旧幕府軍の武士たちは仕事を失っており、分かりやすく言えば失業状態だったのです。このままでは旧幕府軍の家臣たちがますます困窮してしまう、そんな状態でした。

そこで北海道に「蝦夷共和国」という新政府をつくることで、旧幕府軍の武士たちに蝦夷地の開拓に従事するという仕事を与えようとしたとも言われています。また北方警備の仕事も請け負うことができます。

どうですか。失業した武士たちは蝦夷共和国を通じ、「北海道の開拓」「北方警備」の2つの仕事を得ようとしたのです。これ、まさにこの後の明治時代に制度化される、屯田兵の形そのものでしょう。蝦夷共和国の掲げた構想は、新政府・明治政府にもしっかり受け継がれていたと考えられます。

おまけ:あれ、五稜郭って防御に強いのでは?

ここまで読まれて、疑問に思わなかったでしょうか。

だって、五稜郭が星形なのは防御のため、星形は防御に強い、という話をしました。

しかし、旧幕府軍が五稜郭を占拠し「蝦夷共和国」を設立したあと、五稜郭は新政府軍の攻撃でいとも簡単に落城しているのです。おかしいと思いませんか?五稜郭は防御のための形なのに、外国の脅威どころか日本人にサクッと負けているのです。

これ、理由は主に2つあると言われています。1つ目は、五稜郭は西洋城郭を真似たものの、コストカットのため不十分な形であったこと。2つ目は、五稜郭の周辺設備が整っていなかったことです。

1つ目についてですが、西洋城郭では一般的に、星の凹みの場所に半月堡(はんげつほ)という小さな要塞を設けます。そしてここが攻撃と防衛の拠点になるのです。星形ですから半月堡は5箇所必要なわけですが、コストカットのためにここ五稜郭では1つしか設けられませんでした。まず、これが五稜郭が「実は弱かった」理由の一つです。

2つ目、五稜郭本体の問題のほかに、周辺設備が整ってなかったんですね。

元々の計画では、五稜郭の周囲を囲むように7つの分派堡(ぶんぱほ)と呼ばれる要塞を設置する計画でした。五稜郭から一定の距離離れた場所に、五稜郭を守るための要塞を設けることで、五稜郭が直接攻撃を受ける前に、この7つの分派堡から攻撃を行い、敵をそもそも五稜郭を攻撃できる射程圏内に入れない、という計画だったのです。

しかしこの7つの分派堡も、結局建設されたのは「弁天岬台場」のたった1つだけ。あとは結局完成していなかったのです。

いくら五稜郭が星形だったとはいえ、攻める方はあらゆる方面から直接五稜郭を攻撃できたわけですから、それはやられてしまうのも当然とも言えます。

実は五稜郭、星形の西洋城郭という、強そうな見た目と響きの割に、見かけ倒しだったりしたんですね。こんなところも、歴史の面白いところでしょう。

五稜郭の観光ガイドはこちら!

五稜郭公園・五稜郭タワー並びにその周辺の観光案内については、以下の記事をご覧ください。

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この記事を書いた人

道外出身・道外在住大学生。
小学生のころから北海道の魅力にとりつかれ、北海道旅行回数は30回超。
詳しくは「ご挨拶」ページを参照。
2024年5月25日Xアカウント開設。

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