北海道東部の拠点都市である釧路。日本最大の湿原として知られる釧路湿原。あるいは、阿寒摩周国立公園に屈斜路湖・摩周湖、そしてアトサヌプリ。そして港を持ち、漁業資源も豊富。自分でオリジナルの海鮮丼を作ることができる「勝手丼」は大人気です。観光するのがとっても楽しい釧路ですが、釧路の歴史を紐解くと、これらがバラバラの自然要素ではなく、それぞれが繋がっている、と言うことが実感できると思います。
釧路の歴史を一言で言えば「出口」
北海道の他の都市の歴史についてはもう読んでいただいたでしょうか。別に釧路の歴史を知るために他の都市の歴史が前提知識として必要、ということはないのでいいのですが、それぞれの都市に歴史的なアイデンティティがありましたよね。
函館は「世界に開かれた港町」、札幌は「計画都市」、小樽は「中継地点としての港町」、旭川は「軍都」、帯広は「農業都市」みたいな感じでしょうか。では釧路は?というと、これらの都市とはまたさらに性格が違うのです。





釧路も、函館や小樽と同じように港町です。でも、その港としての性質は全然違います。函館は「外国の船が入っては出て行く国際港」でしたし、小樽は「本州と札幌の中継地点」としての港です。では釧路は、というと「北海道・道東の出口」として発展した街なのです。
道東は「資源の宝庫」だった
明治時代、日本は欧米列強に追いつくため、急速な近代化を進めていました。他の歴史記事もたくさん読んできてくださっている方にはわかると思いますが、この「日本の近代化の推進」が「現代の北海道の原点」のようになっていますよね。
日本は、近代化の推進のために、大量のエネルギーと鉱物資源を必要とするわけです。
そんな中で注目され、特に開拓を急ぐことになったのが、皆さんご存知北海道。これについては他の歴史記事でも散々書いているので詳しくは割愛します。まだ未開の地でありながら、北海道には大量の鉱物資源が埋まっているらしい、ということはすでに日本中に知られていましたが、北海道の中でも特に道東には、当時の日本にとって重要な資源が数多く存在していました。
その代表例が、観光地として有名な、弟子屈(てしかが)にあるアトサヌプリ(硫黄山)です。現在では観光地ですが、明治時代の日本にとって、硫黄は極めて重要な戦略物資でした。火薬や化学工業に不可欠だったからです。その硫黄が大量に取れるアトサヌプリは、とってもとっても貴重な存在だったのです。

しかし道東には、大きな問題があった
ただし、いくら硫黄が取れるといっても、大きな問題がありました。これまで北海道各都市の歴史記事を読んでこられた皆さんは、もうわかりますよね。アクセスが悪すぎるのです。掘っても運べなかったのです。
だって、当時(明治時代初期)に発展していたのは函館・小樽・札幌です。これら3都市から遠く遠く離れた道東なんて未開の地です。奥地中の奥地です。いくら資源が豊富にあって、頑張って採掘できても、本州へ運び出せなければ国家資源にはなりません。
函館みたいに、「港に適した都市だったから港ができ、重要な都市になった!」というテンションではないのです。釧路は、「湿原や山地によって輸送が制約される中、なんとかして道東の資源を外へ出す“出口”として重要化した」都市だったのです。
どういうことか。次の章で詳しく説明します。
ではなぜ釧路が「出口」になったのか
鉱山資源の宝庫であった道東ですが、中でも当時注目された代表例が「アトサヌプリ」であることは先に述べました。では、明治時代の政治家のつもりになって、アトサヌプリの硫黄をどうやって本州に運ぶのか、ちょっと考えてみましょう。
アトサヌプリはここにあります。まずは当時北海道で栄えていた3つの都市、函館・札幌・小樽のいずれかに運び出す方法を考えてみましょう。函館・札幌・小樽いずれも遠すぎます。加えて、函館・札幌・小樽に運ぶ場合、北海道の背骨とも呼ばれる、巨大で急峻な山脈・日高山脈を横切らないといけません。以前以下の帯広の記事で詳しく書いたように、日高山脈を横切るのは並大抵のことではなく、非現実的です。
となると、これら3都市を経由せず、本州方面に運び出す必要があります。当然空路はありませんから、海路ですよね。どこかの港から外に出さないといけません。

考えられるのは網走方面・標津方面・釧路方面の3択です。網走方面のが一番海への距離が短く、釧路方面が一番遠いです。
まず網走方面から検討してみます。アトサヌプリからは網走方面の海が一番近く、3つの選択肢の中で最も簡単に港まで輸送できるように見えます。しかし、網走で硫黄を船に積み込んだ後はどうでしょう。そこから船で本州に行くためには、船は知床半島を迂回し、国後島をかわして、さらに根室半島をも迂回してから東京方面へ向かわないといけません。あまりにも非効率です。
標津方面はどうでしょう。一見すると悪くないように思えますが、標津方面の海岸線は砂が堆積しやすくて水深が浅く、大型船が着岸できる港を整備するには適地ではありません。砂が堆積しやすい、ということは標津町・別海町にある野付半島がわかりやすい証拠でしょう。日本最大の「砂嘴」と呼ばれる地形で、その名の通り砂が堆積してできた地形になります。それだけ砂が溜まりやすく、水深が浅く、大きな港には適さない場所なのです。
さらに、網走・標津の両者にはもう一つ重大な問題があります。冬季に接岸する流氷です。流氷が来てしまっては、通常の船は航行できず、その期間港としての役割を果たせません。流氷の中を進む船である「おーろら」や「ガリンコ号」などは現代では観光客に人気ですが、それは最近の話。明治時代には「流氷が来ては船が近寄れない」が常識でした。
ということで、釧路方面を「出口」にするしかなかったのです。しかし、アトサヌプリから海への距離は釧路方面が一番遠いです。遠い釧路まで硫黄をどのように運んだのでしょう。
釧路湿原の功績
釧路にある日本最大の湿原・釧路湿原ですが、当時、「輸送」の観点では大きな障壁でした。現在でこそ北海道を代表する観光地として知られる釧路湿原ですが、近代以前の人々にとって、あれは「絶景」ではありませんでした。「巨大な交通障害」だったのです。
だってだって、湿地帯では道路建設が極めて難しいですし、人や物資の大量輸送も困難です。つまり道東内陸は、「資源はあるが、輸送インフラが成立しにくい空間」だったのです。釧路からものを運び出しにくかった要因としては、釧路が札幌などから遠く離れた場所であったから、という要因もありますが、この巨大な湿地帯が、物資の運搬を非常に難しくしていたのです。
しかし一方で、先述した「アトサヌプリの硫黄を遠い釧路に運べた理由」。これは実は「釧路湿原のおかげ」なのです。
釧路湿原のような湿地帯は、道路建設も困難、鉄道建設も困難です。しかし、それは陸上交通の話です。釧路湿原を北から南へ流れる釧路川は、湿原を蛇行しながら穏やかに流れます。湿地帯であり、釧路湿原自体がもともと海であった場所なので、その川の流れはほとんど高低差がなく、とっても穏やかです。ゆえに、釧路からある程度の大きさの船が、釧路川をかなりの距離、そのまま遡上することが出来たのです。
ここに「五十石神社」という神社があります。この「五十石」という名前の由来は、アトサヌプリの硫黄を運ぶ五十石船が、海からこのあたりまで入って来れたことに由来します。どうですか、こんなに内陸まで大型船が入ってこれたのです。それだけ釧路川は高低差のない川なのです。だからこそ長きにわたり、釧路川は何度も何度も流れを変え、ある時はこっちを流れてある時はこっちを流れて、、、みたいに形が変幻自在に変わる川となっており、この辺り一面には森が育たず、巨大な湿地帯・釧路湿原ができたというわけです。
まとめましょう。アトサヌプリの硫黄は、釧路まで陸送したのではありません。この高低差のほとんどない釧路川であれば大型船が遡上できることを利用して、釧路川の水運を使って運んでいたのです。釧路川の河口は当然、現在の釧路市付近。このようにして、釧路が北海道の「出口」となり、発展していくようになります。
北洋漁業が、釧路をさらに巨大化させた
20世紀に入ると、釧路はさらに重要性を増します。
その理由が北洋漁業でした。当時の日本は、樺太(現在のサハリン)、千島、カムチャツカ方面へ進出し、巨大な北洋漁業圏を形成していました。
その中で、大きな港を持つ釧路は、北洋漁場の拠点として急成長し、それに付随する水産加工なども盛んになっていきます。もともとは北海道の出口だった港は一転、「北洋漁業の拠点」として、さらに重要な役割を担っていくようになります。
なかなか観光をしていて、釧路湿原とアトサヌプリの関係、そして道東の拠点、北洋漁業の拠点が釧路にある理由なんてことを意識する人は少ないでしょう。でもきっとこの記事を最後まで読んで、そういったことを頭に入れるた皆さんは、釧路観光の面白さもグッと広がると思います。

