北海道の歴史の上で、本州にない文化として主に出てくるのが、続縄文文化・擦文(さつもん)文化・オホーツク文化・アイヌ文化でしょう。擦文文化とオホーツク文化って何が違うの?そして続縄文文化ってものあるけどこれは何?アイヌ文化とは違うの?などと、その違いがわかりにくいと感じる方も多いでしょう。ここではこの4つの文化の違いを解説します。
4つの文化はその時代が違う!
簡単に言えば、続縄文時代の文化が続縄文文化、擦文時代の文化が擦文文化、続縄文時代後期と擦文時代前期に流入してきたのがオホーツク文化、擦文文化以降の文化がアイヌ文化です。
続縄文時代というワードも本州にないですよね。小学校・中学校で習う歴史だと、縄文時代の次は弥生時代です。しかしこれは本州の話で、北海道では縄文時代から弥生時代に移行せず、「続縄文時代」という時代に入っています。要するに、「縄文時代の続き」のようなものが、北海道では続いていたのです。
縄文時代と弥生時代の違いは何だったでしょうか。縄文時代は狩猟・採集により食糧を得て生活していたわけですが、弥生時代では農耕を行っていたのが大きな違いでしたよね。北海道が弥生時代に入らなかったというのは、北海道では人々の生活に農耕が取り入れられることはなく、引き続き人々は狩猟・採集で生活していた、ということです。
続縄文時代の後は、擦文時代へ突入し、擦文文化の終了とともにアイヌ文化期に入ります。
続縄文文化とは
続縄文時代は、簡単に言えば縄文時代の続きです。本州は弥生時代に入ったわけですが、北海道では狩猟・採集を生活の中心とする縄文文化が継続していた、ということです。なぜ本州のように、米づくりなどの農耕を行う弥生文化に移行しなかったのか、ということですが、1つにはやはり寒冷な気候があるでしょう。米を作るには北海道はあまりにも寒すぎるのです。
なに、北海道なんて日本を代表する米の産地じゃないか!と思うかもしれません。しかし、北海道で米を作れるようになったのは品種改良あってのこと。米っていうのは元々暖かくて雨がたくさん降る場所で育つもので、北海道では育たなかったのです。
でも、北海道に弥生文化が浸透しなかったもっと大きな理由は、「農耕をする必要がなかった」ということでしょう。北海道の食糧事情は豊かで、狩猟・採集だけでも不自由ない暮らしができたとも言われています。
もちろん、交易をしていなかったわけではありません。弥生文化の本州ともしっかり交流がありました。しかし北海道の人たちは、弥生文化を自分たちの暮らしに取り入れることを選ぶのではなく、あくまで狩猟・採集を中心とする生活を続け、北海道でしか得られない獲物などと引き換えに、弥生文化における「宝」を手に入れていたと考えられています。実際、弥生文化との交易によって得られたと考えられる鉄器・管玉などが、北海道の続縄文時代の遺跡から多数発掘されています。
自分たちは弥生文化に移行しないが、弥生社会の目ぼしいものは交易によって手にいれる、そんな考え方だったのかもしれません。
擦文文化とは
続縄文時代が終わると、北海道は擦文時代に入ります。はじめに続縄文時代との違いについてですが、一番は本州からの影響の大きさの違いでしょう。縄文時代を象徴するものといえば縄文土器ですが、本州の影響を受け、擦文時代にはこの縄文土器が見られなくなり、本州の土師器(はじき)に近い鉄器・土器などが使われ始めます。また本州との交易により、鉄製品も広く使われるようになったほか、鉄を加工する技術も広がりました。
本州との交易が盛んになる中で、鉄製品に代表されるような本州の文化も入る中、アワ・キビ・大麦などの雑穀を栽培するようになったのもこの時代です。住居も、本州で見られるようなカマドつきの四角い竪穴住居になります。それでも米づくりを始めることはなく、縄文時代の暮らしと本州の文化を織り交ぜたような、北海道独自の文化、擦文文化が発展したのです。
擦文文化の象徴的なものとしては、やはり縄文土器、弥生土器の例に倣い、擦文土器が挙げられるでしょう。擦文土器は、縄文土器を受け継ぎ装飾が施されているものが多く、特に幾何学模様が大きな特徴です。
あと擦文文化期においては、古墳が建てられたことも大きな特色です。古墳というと、本州の古墳時代を思い浮かべるでしょうが、本州の影響を受け、この時期には北海道にも古墳が作られていました。基本的には円形のものが多く、大きさも大きくて縦横10mほどというサイズで、本州のものと比べれば小規模ではあるかもしれませんが、江別市の江別古墳群や、恵庭市の茂漁(もいざり)古墳群など、有名な古墳群もいくつかあります。
オホーツク文化
続縄文文化、擦文文化の時代、オホーツク海沿岸には、サハリンから別の文化が流入していました。これがオホーツク文化です。
続縄文文化、擦文文化が、本州との交流を続けながら北海道で生まれた独自の文化であるのに対し、オホーツク文化はそれらとは全く異なる場所、サハリン方面の影響を受けて誕生した文化、ということが大きな特徴です。そのためオホーツク文化が広がったのは北海道の北側、オホーツク海沿岸に限られていました。
サハリン方面の影響、とは具体的に何かと言いますと、ロシアのアムール川流域(大陸を流れ、サハリンのすぐ西側に注ぐ川です)からサハリン北部で生活していた少数民族です。彼ら(「海の民」と呼ばれます)が船に乗って北海道にやってきて、特に北海道の最北端・宗谷岬付近で生活していた人と触れ合ったことにより生まれた文化と言われています。
オホーツク文化は宗谷岬付近で生まれた後、広範囲に広がっていき、北海道北部のオホーツク海側のみならず、国後・択捉島や千島列島にまで広がりました。
実はオホーツク文化がどういう文化だったのか、という詳細については、まだわかっていないことが多く、謎に包まれた文化です。ただし大きな特色としては、航海技術・海洋狩猟技術や、クマに対する信仰があります。1点目の航海技術・海洋狩猟技術に関して、オホーツク文化では食料として、アザラシやオットセイ、トドなどの海獣を獲っていたことが確認され、その航海技術は大変優れていたと考えられています。また2点目に関して、ヒグマに対して熱い信仰をしていたことがわかっており、ヒグマの頭蓋骨を祀っていたことや、精巧なクマの彫刻も発見されています。
そんなオホーツク文化ですが、擦文文化に吸収されるように、12世紀ごろには姿を消したと言われています。
ちなみに、オホーツク文化では大陸の影響しか受けなかったのか、本州とは全く交流がなかったのか、というとそういうわけでもありません。あくまで「大陸・サハリン方面からの影響が強かった」だけで、本州とも交易を行っていたことが遺跡などからわかっています。
アイヌ文化
一番有名なのはこれでしょう。北海道の先住民といったら「アイヌ民族」「アイヌ文化」ですよね。
擦文時代を終えると、ついに「アイヌ文化期」に入ります。本州では鎌倉時代ごろのことです。アイヌ文化がどのような文化かざっくり言えば、擦文文化とオホーツク文化の融合といった感じがあります。オホーツク文化は、擦文文化に吸収されていったことは先述しましたが、オホーツク文化は完全に消えてなくなったわけではなく、しばらくして擦文文化とはまた異なる文化「アイヌ文化」が誕生するきっかけとなったのでしょう。ただしこの辺りは色々な説があるようで、はっきりとはわかっていないようです。それでも、擦文文化とオホーツク文化が混じり合って新しく生まれた文化がアイヌ文化、という見方が一番シンプルで分かりやすい見方だと思います。
アイヌ文化については、日本人としてしっかり学んでおくことが重要なものでもあるので、いくつかの項目に分けて書いていきます。
アイヌ語
まずは言語から。アイヌ語はアイヌの言葉で、今も北海道の地名にそれが生きています。例えば「札幌」はアイヌ語の「サッポロペツ」(乾いた大きな川)から転じた地名ですし、そのほかにもアイヌ語地名はものすごくたくさんあります。「長万部(おしゃまんべ)」なんかは、いかにもアイヌ語、という地名として有名だったりもしますね。
なお、北海道を旅行する上で覚えておきたいアイヌ語を以下の記事で列挙しているので、興味のある方はご覧ください。
また、アイヌ語の大きな特徴として文字を持たないということがあります。そのため、「口頭でものを語る」ということがものすごく発達している文化です。これは口承文芸と呼ばれており、アイヌ文化の大きな特色の一つです。
口承文芸
というわけで、アイヌ文化において口承文芸は特筆すべき文化の一つです。アイヌの言い伝えなどは、この口承文芸によってアイヌのご先祖様から親から子へ、親から子へと引き継がれてきたものです。目的としては、語り手の話を聞いて楽しみ、味わうことがメインでした。当然その物語の内容や語り方にも複数の種類があります。口承文芸の種類について、少しだけ紹介します。
英雄叙事詩
短いメロディを繰り返しながら、その歌に乗せて語られる、長編の物語です。主人公がいて、その主人公に関するお話がメインです。語り終えるまで数時間ほどかかるものもあり、今の感覚でいくと映画・小説のようなものに近いでしょうか。
「英雄叙事詩」のその名の通り、主人公は主に英雄です。超人的な力を持つ人が、生い立ちやその冒険などのストーリーを語るものが多くなっています。今の映画や小説もそういうものが多いですよね。
神謡
語り方は「英雄叙事詩」と同じ、つまり短いメロディの繰り返しに乗せて語られるものですが、その物語の主人公が違います。物語の主人公(叙述者)がカムイ(神)であるものが神謡です。
散文説話
最後にこれ。こちらは上の二つと少しテイストが異なり、リズムを持たずに語られる物語です。わかりやすくいえば、日常会話に近い形で語られるものです。完全に日常会話と同じ口調かというと、抑揚に少し変化があったりもしますが、基本的には普通の会話のように語られるものです。
内容も多岐に渡りますが、先祖の体験したことや、自分の体験したこと、カムイとの関わりなどの話が代表的でしょうか。
アイヌ文化の精神
アイヌ文化の大きな特徴として、「すべてのものに神が宿っている」と考えられているということがあります。すなわち自然界のすべてのものが、カムイからの贈り物と考えられてきたのです。しかしアイヌのカムイは、我々が言う「神」とは概念が異なります。あくまで、カムイは人間(アイヌ)の世界「アイヌモシリ」とは別の世界「カムイモシリ」にいる存在、と見做しており、カムイとアイヌは対等の存在として見ていることが大きな特徴です。そのため、カムイからの恵みに対して盛大にもてなすことがある一方で、カムイに対して抗議を行うこともありました。
特にカムイとして信仰が強かったのがクマで、クマに対する信仰は厚いものでした。このクマに対する信仰の深さは、オホーツク文化でも見られますから、もしかしたらオホーツク文化の影響を受けたのかもしれませんね。
アイヌの生活
アイヌは、狩猟・採集生活を基本としていました。農耕も行っていなかったわけではありませんが、生活の中心ではなかったようです。農耕よりも、交易を大切にし、特に和人(本州以南に住む人々)との交易は盛んなものでした。交易にかなり重きをおいていたことから、不平等な交易を和人から強いられた際には蜂起を起こしており、その代表的なものが有名なシャクシャインの戦い、というものです。
アイヌが住んでいたのは、当初は5〜6軒が集まったコタン(村)でしたが、やがてアイヌ同士での紛争が起こるようになると、より広い地域で、狩猟・採集場所(イオル)を一種の領地とみなし、その領地全体を統括する首長が現れたと考えられています。
各地のアイヌは各地のイオルを巡って対立し、度々紛争を起こしていたことも知られています。
まとめ
北海道では、縄文時代が本州に比べて長く続き、本州と異なる時代「擦文時代」に入りました。その後サハリン方面からの「海の民」によって「オホーツク文化」がもたらされ、それらが融合して「アイヌ文化」が誕生した、といった形にざっくりまとめられるかと思います。
アイヌ文化については、白老町にある「民族共生象徴空間ウポポイ」で深く学べますから、ぜひ足を運ばれるといいでしょう。JR白老駅からも歩いていくことができます。
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