函館の歴史 いち早く開港し和洋折衷の文化が発達した港町

現在の函館には、「ハイカラの街」や「異国情緒の街」というイメージがあるでしょう。教会群、石畳、元町、西洋建築、赤レンガ倉庫――確かに函館には、日本の他都市とは少し違う空気があります。なんとも西洋チックで、でもやっぱりちょっと和風で、なんていうか「和洋折衷」という言葉がそっくりなんですよね。このサイトでも何度もこういう話を取り上げています。

なぜ函館には和洋折衷の文化が根付いたのか。ここを理解すると、函館という街が、単なる港町ではなかったことが見えてきます。実際、幕末から明治初期にかけての函館は、「ただの北海道の地方都市」ではありませんでした。「北太平洋世界の一大拠点」だったのです。

今回は、「なぜ函館は発展したのか」を軸に、函館の歴史を書いていきます。函館の歴史自体は他のいろいろな記事に分散して書いているところではありますが、函館は北海道の歴史において非常に重要なので、改めて「歴史記事」としてここにまとめ直したいと思います。


目次

黒船来航による日本の開国

江戸時代末期の1853年、みなさんご存知の通り、マシュー・ペリー率いる黒船艦隊が神奈川県・浦賀へ来航します。

一般的には、「それまで鎖国体制を取り、諸外国との交流を避けていた日本が、黒船の来航によって開国した」と説明されます。しかし、ここでもうちょっと掘り下げたいところがあります。「なぜ欧米列強は、日本を開国させたかったのか」ということです。

主な答えは、当時、世界が「蒸気船の時代」に入っていたからです。18世紀後半〜19世紀前半にかけ、イギリスで産業革命が起こり、蒸気機関が普及し、ついにそれまで風を利用して動いていた船(帆船)も、蒸気機関を使って自走する蒸気船になります。

帆船時代と違い、蒸気船は石炭を大量に消費します。そのため欧米列強は、世界中に燃料補給が可能な「補給港」を必要としていました。その中で特に重要だったのが、北太平洋航路です。清(今の中国)をはじめとするアジア各国との貿易のためには、北太平洋を突っ切るのが一番効率がいいのです。太平洋航路を使えないと、欧米からは大西洋を通り、アフリカの南端、喜望峰を回っていかないといけません。北太平洋航路はアジア各国との貿易のために不可欠だったんですね。

しかし、ということは、北太平洋航路上で燃料補給をしなければなりません。そして地図を見ればお分かりの通り、日本列島は、欧米とアジアをつなぐ「北太平洋航路の中継地点」として極めて重要な位置にあったのです。これが、日本を開港させたかった理由の一つと言われています。


日本の中でもなぜ函館だったのか

欧米列強が日本を開港させたかった理由は以上で述べました。結局、日本は1858年に日米修好通商条約を結び、函館のほか、新潟・横浜・神戸・長崎の5港を開港することになるわけですが、函館は日米修好通商条約のさらに4年前に結ばれた日米和親条約ですでに開港地に選ばれています。なぜ、これほどまでに函館港が重視されたのか。実はこの答えは、「補給港」という観点から地理を見てみれば割とすんなりわかると思います。

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この記事を書いた人

道外出身・道外在住大学生。
小学生のころから北海道の魅力にとりつかれ、北海道旅行回数は30回超。
詳しくは「運営者情報」ページを参照。

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