江戸時代、北海道の渡島半島(おしまはんとう)の南には松前藩があり、和人が暮らしていました。一方で、北海道の他の地方は、ほとんどがアイヌの人々が暮らす蝦夷地(えぞち)でした。
和人の暮らす場所と蝦夷地。その境に、両者の行き来を取り締まる場所として設置されていたのが山越内(やまこしない)関所です。現在の八雲(やくも)町に位置します。八雲町は、長万部(おしゃまんべ)町と森町の間にある渡島半島の町です。
江戸幕府の第11代将軍、徳川家斉の時代に東蝦夷地が幕府の直轄地になったことで、箱館(函館)と択捉島を結ぶ道ができ、多数の和人が蝦夷地へ移住するようになりました。これに伴う北方警備拠点として、関所を函館の亀田からここに移設したのが、山越内関所の始まりです。1801年のことです。
函館線・山越(やまこし)駅は、かつての山越内関所付近にあり、それを示すように関所をイメージした駅舎となっています。かつては関所の名前と同じ、山越内駅を名乗っていました。しかし山越内駅の開業は1903年11月、山越に改名されたのは1904年10月なので、山越内という名前だったのは1年にも満たないわずかな期間です。
ただ山越内という名前が地域に根付いていなかったわけでは全くなく、郵便局などもかつては山越内を名乗っていたようです。
山越内の語源はアイヌ語の「ヤムクシナイ」(栗拾いのために通る川)と言われています(諸説あります)。ナイ=川は北海道を旅するなら覚えておきたいアイヌ語ですね。稚内、幌加内(ほろかない)、厚内(あつない)など、ナイのつく地名は本当にたくさんあります。川の近くに集落ができることが多いので、川の意が入った地名が多いのは納得ですね。
駅舎は関所をイメージしただけかと思いきや、もう「山越内関所」と書いてありました。字が薄くなってしまってはいますが。
駅舎内は狭いですが、かつての関所を再現した模型や関所の施設配置図が展示され、ミニ資料館のような趣です。
模型もしっかり見ると、精巧にできています。本当にこんな雰囲気だったのだろうという感じが伝わってきます。
ミニ資料館のような雰囲気も、ドアの前だけ。奥はごく普通の待合スペースです。いや、足拭きマットが置かれているのは珍しいですかね。なんのためでしょう。
資料館のような雰囲気なのは駅舎内だけではありません。駅正面にも、「山越停車場」の味のある看板と大きな松の木があり、海抜表示なども凝っています。どこか日本庭園のような雰囲気も感じますね。
風流な駅前広場です。日が傾き、影も長くなってきました。
駅の横には立派な公衆トイレもあります。こちらも控えめですが、駅舎の雰囲気に寄せているように感じられます。駅のすぐ横にありますが、駅の利用者が使うよりも、車のドライバーの途中休憩に使われることの方が多いのではないでしょうか。
というのも、駅前を国道5号線が通っているのです。ちゃんと公衆トイレの案内看板も設置されています。かつてここに関所があったこと、そして一桁国道であることが、これまで長きにわたり多くのヒト・モノ・カネが行き交う場所であったことを物語ります。
駅自体もかなり広いです。国道5号線に負けず、並行する鉄道の果たしてきた役割、果たしている役割も非常に大きなものです。
ホームもかなりの長さがあります。現在ここにとまるのは1〜2両の普通列車だけですが、きっとかつては長い列車がホームいっぱいに停車していたのでしょう。ホームの端の方は雑草が生い茂り、どこまでがホームなのかは判断が難しそうです。
長い貨物列車が通過していきました。ここは北海道各地と本州を結ぶ、物流の大動脈。今も昔も大事なルートであることは変わりません。
そして再び国道5号線に目をやれば、それに負けないように、国道5号線にも大きなトラックがたくさん行き交っているのがみてとれます。どれだけ多くのものがここを通って本州へ、または札幌方面へ運ばれているのでしょうか。きっとものすごい量なのでしょう。
かつてはここを通る荷物は全て調べられたのでしょう。関所がなくなったからこそ、ここはたくさんのトラックが通り、長い貨物列車が走り抜けているわけです。今の山越駅は貨物列車もトラックも素通りするのみ(もしかしたらトラックはトイレ休憩でとまるものもあるかもしれませんが)。かつての要衝は、今では何の気なしに多くのヒトやモノがただただ通過していく場所となっています。
駅の近く、国道沿いには「夜泣き石」というものが置かれています。関所で捕まった罪人が切られる際に腰をかける石があったのですが、夜中にその石の下から泣き声が聞こえたといわれています。実際に罪人の首を切る役人も、刑を執行した日は酒を飲んで酔い潰れなければ恐怖で眠れなかったという話が残っているほか、この関所の寂しい雰囲気と相まって、関所の番人からも大変恐れられていたようです。山越内関所が廃止された後もこの夜泣き石だけは処分されず、今でもこの地に残されています。血の跡で黒ずんでいるため「血染めの石」とも呼ばれているようです。