北海道で一番の大都市、札幌。人口200万人、政令指定都市。広大な北海道のなかで、その人口の3分の1が札幌市に住んでいます。
札幌の当初の人口は8人?!
今では日本を代表する都市の一つとなっている札幌市ですが、歴史的に古くから人が根付いていた場所ではありませんでした。北海道の先住民族であるアイヌも、札幌に暮らしていた人はほとんどいなかったといいます。松前藩などの和人にとっては、本州に近い函館周辺が拠点であり、函館周辺以外はほとんど「未開の地」も同然でした。実は札幌というのは、歴史的に人が住んでこなかった場所なんですよね。
代表的なアイヌ民族、松前藩の分布は次の図の通り。和人である松前藩は札幌から遠いところに拠点を置いていますし、先住民であるアイヌ民族の分布も、「余市アイヌ」や「石狩アイヌ」が近くに分布していながらも、微妙に札幌から外れているのです。

北海道は、明治時代になりようやく開拓が始められるわけですが、明治時代に入る前、江戸時代ですでに「調査」は行われていました。有名なのが「北海道」の名付け親でもある松浦武四郎です。幕府から当時「蝦夷地」と呼ばれていた北海道の調査を命じられて調査に入り、その道中で札幌を訪れた様子も日記に綴られています。その日記には「原中に土人小屋を見つけたり。これヌツホコマナイという。すなわち樋平(現在の豊平川)の北岸なり。」と記されており、まさに松浦武四郎が訪れた当時の札幌には「土人小屋」しかなかったことがわかります。実際、この時代札幌には、川の渡し船の船頭さんを任されていた志村鉄一と吉田茂八の二家族のみが、豊平川の両岸に住んでいただけと言われており、なんとその人口2家族わずか8人です。
もちろん、この8人の他にアイヌやその他の人々が住んでいた可能性は否定できませんが、明治政府が本格的に北海道開拓に乗り出す前まで、札幌は本当に「何もない場所」であったことは、ほとんど間違いないでしょう。
明治時代に入る前まで、北海道の拠点は函館
松前藩が函館周辺に拠点を置いていたことは述べましたが、明治時代に入る前は北海道の拠点は函館でした。正確にいうと、松前藩の拠点は函館よりもさらに南、松前という場所だったのですが、その松前が城下町として栄えていたのに加え、現在の函館周辺も栄えていたのです。やはり本州に近く、北海道に住む先住民族・アイヌとも交易が行える場所というと、この辺りになるのです。
札幌が開拓の拠点に
しかし、今はどうでしょう。函館よりも札幌が圧倒的に栄えています。江戸時代から栄えていた函館と、無人の原野だった札幌。そんな状況にも関わらず、札幌が飛躍的に栄えるようになったきっかけが、明治政府が開拓使の拠点を札幌に置いたことです。
まず開拓使とは何かについて、説明しておきましょう。当時明治政府は、欧米列強の脅威から、北方警備の必要性を感じていました。しかし、そんな北方警備の最前線である北海道は、ろくな地図もなく、内陸部は道すらなく、ほとんど何も知らない未開の地。国防上の観点から、そんな土地を一刻も早く開拓する必要があったのです。その北海道開拓を主導する機関が「開拓使」です。
その開拓使は、開拓の拠点を当時ほとんど無人地帯だった札幌に置きました。「なんでこんなところに置いたんだ」と思うでしょうが、実は結構合理的な理由があります。最も大きい理由は札幌の地形でしょう。札幌の背後には広大な石狩平野が広がり、街を作るのに最適です。また開拓使の最大の目的は「北方警備」。当時栄えていた函館では、あまりにも南すぎて、北方警備の役割を果たせません。札幌は程よく北の方で、また札幌の北側には広大な石狩平野がありますから、札幌から北へ北へと道路を整備していく、ということがやりやすかった場所といえます。
碁盤の目状の札幌の街
京都のような碁盤の目

このように、札幌は「ゼロ」から意図的に街を作ったわけですから、完全なる「計画都市」です。道路は碁盤の目状に張り巡らされ、住所はまるで座標のような表記です。大通公園が横軸(x軸)、創成川が縦軸(y軸)となり、大通公園から北へ行くにつれて北1、北2、北3・・・と住所が振られていき、また南に行けば南1、南2・・・となっていきます。同じように創成川から東に行けば東1、東2・・・となり、西に行けば西1、西2・・・となっていきます。
例えば札幌駅があるのは「北6西4」ですし、札幌市時計台があるのは「北1西2」です。したがって札幌駅から札幌市時計台に行くには、南に5ブロック行って、東に2ブロック進めばいい、ということになります。本当にわかりやすいですよね。
大通公園は「火防線」
ここで横軸、すなわち北、南のボーダーラインとなっているのが大通公園ですが、大通公園は公園としてはかなり特異な形をしています。道路のように細長いんですよね。その名の通り、「大通りのような公園」といった趣です。


計画都市ですから、この大通公園が作られたのにも理由があります。この大通公園より北は官庁街、南は商業地や住宅と役割が分けられていました。しかし商業地というのは火災が起こりやすく、商業地と官庁街が隣り合っていると商業地の火災が官庁街に延焼するかもしれません。大切な官庁街を火災から守るため、「火防線」として設けたのがこの大通公園。すなわち商業地が火事になっても、官公庁が焼けないようにするためこの大通公園を作ったということです。
実はこの大通公園の北と南の区分けは、今でもその名残を見ることができます。現在の北海道庁、観光地になっている旧北海道庁(赤レンガ庁舎)、札幌駅、北海道警察本部、裁判所などがあるのは全て大通公園の北側です。一方で、大規模商業施設、「札幌三越」「札幌PARCO」などがあるのは大通公園の南側。歓楽街すすきのも大通公園の南側です。今でも、北は官公庁、南は商業地といった区分けが、名残として少なからず残っています。
計画都市・・・のはずなのに
実は札幌、一見綺麗な碁盤の目状の都市に見えるのですが、実はそうではない地区もいくつかあります。例えばこの辺を見ていただけますか。
他の場所は直線の道路が直角に交わり碁盤の目になっているのに、なぜかこの辺だけ道路が斜めです。東の方向からまっすぐ貫いてきた道路も、この地区に入るとキュッと曲がってしまいます。
実はここ、「屯田兵村」の名残です。札幌の碁盤の目状の街並みは、開拓使の手によって作られたもの。しかし、この時代、北海道開拓のプロジェクトとして開拓使のほかに「屯田兵」もありましたよね。屯田兵は、北海道の開拓・農業と軍事の両方を担う人たち。その人たちが村を作っていたのがこの地域なのです。開拓使の「計画都市プロジェクト」とは別に「屯田兵プロジェクト」がそれぞれあったために、こんなふうにちょっとだけチグハグな街になっていたりするのです。そんなところも面白いですよね。
あ、もちろんですが、屯田兵の村はここだけじゃありませんよ。石狩平野を中心に各地に作られています。
ところで、開拓使や屯田兵について当記事ではさらっと書いていますが、より詳しい説明は以下の記事に載せていますので、こちらもぜひ併せてご覧下さい。

すすきのも計画的に作られた歓楽街
大通公園からさらに南に行くと、繁華街「すすきの」があります。今でも遊郭として有名なすすきのですが、実はここ「すすきの」も元から戦略的に遊郭として作られた場所です。北海道の開拓のため、札幌に開拓使の拠点を置き、まちづくりをしたことは先に述べました。しかし、その街に人が住まなければ意味がありません。
実際、開拓のために札幌に職人さんや大工さんなどを住まわせたものの、札幌での生活は想像以上に過酷なもの。冬の寒さは尋常ではないですし、開拓だって未開の地を切り開くわけですから、簡単なはずがありません。せっかく札幌に移住してもらっても、札幌での暮らしに耐えかねて故郷に帰ってしまう人が続出したのです。そこで札幌の「すすきの」に遊郭を作り、主に男性が遊べるようにして、札幌での暮らしを楽しくさせ、定住させることを狙ったのです。当時、力仕事が主である開拓は、男性が主たる労働力であったことは事実で、男性向けの遊郭を作ったということは非常に理に適ってもいるのです。
歴史を知ると見る目が変わる??
大通公園もすすきのも、札幌を代表する観光地です。しかしこれらの歴史を知って観光している人は、決して多くはないのではないでしょうか。ただ大通公園で写真を撮るだけ、大通公園のテレビ塔に登るだけ、でも確かに観光として楽しいですが、これが火防線になっていたこと、そして大通公園の南北での街の違いなどを見ながら観光できたら、その観光は何倍も面白くなることでしょう。
また「赤レンガ庁舎」として知られる北海道庁の旧本庁舎に行く際も、なぜ赤レンガ庁舎はその場所にあるのか、すすきのに行く際も、なぜすすきのは南の方にあるのかなど、以上の歴史を知っていたらきっと納得できることでしょう。札幌の街を歩く際の見る目が変わるはずです。札幌は「歩いて観光しやすい」都市ですが、歩くことが「単なる移動」ではなく、驚きと発見に満ち溢れたれっきとした「観光」の時間になると思います。ちなみに札幌観光で絶対押さえておきたい「必修」観光地は以下に記しているので、よかったら参考にして下さい。
