江戸時代、北海道は蝦夷地と呼ばれ、先住民族のアイヌが暮らしていました。そしてアイヌとの交易をほとんど独占していたのが、現在の北海道・渡島半島南部にあった藩・松前藩(まつまえはん)です。松前藩はアイヌの立場の弱さをいいことに、アイヌの産品を不当に安く買い叩いたり、大量の産物を差し出すように強制するなどしており、アイヌは苦しまされてきました。
アイヌ同士での争い
アイヌは、その地域ごとに集団が分かれていました。北海道北部、稚内付近から日本海側余市にかけて勢力を持っていたのが余市アイヌ、現在の石狩平野付近にいたのが石狩アイヌ、松前藩のすぐ北、渡島半島東部と噴火湾沿いが内浦アイヌ、札幌〜苫小牧付近がシュムクル、日高、十勝、釧路あたりに勢力を持っていたのがメナシクルです。これらのアイヌの集団は、基本的には対立していました。
引用元:Google社 Google マップ
このうち、シャクシャインの戦いの発端となったのが、シュムクルとメナシクルの対立です。
シュムクルとメナシクルの境界は、現在の新ひだか町付近でした。シュムクルの支配下にあったハエ(現在の日高町門別)、メナシクルの支配下にあったシベチャリ(現在の新ひだか・静内)の人同士で、静内川などを中心に、イオル(狩や漁をする範囲)を巡って対立していました。
引用元:Google社 Google マップ
シュムクルがメナシクルのリーダー・カモクタインを殺害したのが1653年のこと。メナシクルの新しいリーダーはシャクシャインになり、1668年、ついにシュムクルのリーダー・オニビシを殺害します。
その一年後(1669年)、オニビシの親戚ウタフは松前藩へ武器の援助を頼みに行きますが、断られてしまいます。
そして松前藩からの帰り、ウタフは死んでしまいます。病死と言われていますが、これがシャクシャインの戦いのきっかけになったのです。
シュムクルには、ウタフは松前藩に毒殺されたという噂が広がったのです。これまで松前藩に不公平な交易を強いられていたこともあり、松前藩をはじめとする和人に対する不満と不安が一気に広がることになります。
シャクシャインの戦いのはじまり
アイヌ同士の争いはすべきでない。ひどいことを続ける和人こそが敵だ。シャクシャインはそのように呼びかけ、今まで争っていたアイヌをまとめ上げ、和人に対する蜂起を主導しました。これがシャクシャインの戦いのはじまりです。1669年6月のことです。
松前藩だけでなく、和人は主に交易のため北海道各地に住んでいましたから、まずそのような和人が狙われ、北海道各地で和人を殺害していきました。そして次に松前藩の方へ進軍します。
松前藩は事態を重く受け止め、江戸幕府に報告、主に東北の藩から鉄砲や軍の援助を受けて、戦いに備えます。
最初は苦戦していた松前藩でしたが、武器の鉄砲が揃うと、オシャマンベ(現在の長万部)まで攻め込みます。しかしアイヌは山の中に隠れ、スルク(トリカブトとその根)の毒矢を放ち、松前藩は進軍できなくなってしまいます。オシャマンベは3方を山に囲まれた地形、もう1方は海です。山の中から毒矢を放つには、確かにかなり地の利のある場所だと思います。当時、松前藩は鉄砲、アイヌは毒矢が主な兵器でした。
結局松前藩はオシャマンベからクンヌイ(現在の国縫)まで後退することになります。アイヌもクンヌイまで松前藩を追っていき、松前藩はクンヌイ川(現在の国縫川)を防衛線とします。ここクンヌイが、松前藩とアイヌの最大の激戦地とされています。
松前藩が9月に軍を増強し、海を渡って攻め始めると戦局は大きく変わり、松前藩優勢となります。松前藩は松前藩と関わりが深いアイヌを味方につけるようになり、アイヌ同士の結束も揺らいでいきました。もともと争っていたアイヌ同士が短期間で手を組んだのですから、結束が長続きしないのも無理はありません。
シャクシャインの戦いの終結
10月、松前藩はシャクシャインが構えるシベチャリチャシ(シベチャリの陣地/チャシは砦・城の意)の近く、ピポク(現在の新冠町)に陣地をはります。松前藩は有利に戦いを進めていましたが、指揮官の佐藤権左衛門はシャクシャインに和解を提案します。シャクシャインは元々徹底抗戦の構えだったものの、戦況が不利になっていたことからそれを受け入れました。しかしこれは松前藩が仕掛けた罠でした。
松前藩兵は11月に行われた和睦の宴会の場で、シャクシャインとその仲間を一気に取り囲んで殺します。要するに騙し討ちをしたわけです。そして次の日、シベチャリチャシを焼き払います。
リーダー不在となったアイヌは勢力を弱め、1671年、シャクシャインの戦いは終結することとなりました。
場所請負制
シャクシャインの戦いに勝利した松前藩は、さらにアイヌに対する支配を強め、交易のルールをアイヌにとって不利なものに変えます。シャクシャインの戦いの前は、商場知行制という家臣への褒美にアイヌとの交易権(本州では土地)を与える制度でしたが、シャクシャインの戦い後は、アイヌに売る物の本州からの買付・運搬および、アイヌとの交易を商人に請け負わせる場所請負制に移行されました。これにより、請け負った商人の利益追求による、アイヌの酷使が各地で行われるようになりました。