かつて「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれていた北海道。「北海道」と呼ばれ始めたのは明治時代になってからのことです。
「北海道」と名付けたのは松浦武四郎
江戸時代の蝦夷地は、先住民族であるアイヌが住む土地であり(北海道の渡島半島南部には松前藩があり和人(日本人)が住んでいましたが、ここは蝦夷地とは呼ばれず区別されていました)、「蝦夷地」は「異民族が住む土地」という意味の呼称です。日本の北の果てがどこか、ということも曖昧であった時代だからこその呼び名でしょう。
そこに「北海道」という名前を名付けたのが幕末の探検家・松浦武四郎(まつうらたけしろう)です。武四郎は現在の三重県松阪市に生まれました。16歳のときに江戸へ一人旅に出かけたことを発端に、日本各地を旅するようになります。その際には詳細な地図や、地域の文化を記録に残しています。
武四郎がはじめて蝦夷地に渡ったのは28歳のときです。武四郎は当時、長崎で僧侶をしていましたが、そこで日本の北方が危険にさらされていることを耳にし、蝦夷地へ向かうことにしました。当時の蝦夷地は本当に未開の地で、先住民族であるアイヌに助けてもらいながら探検をしたと言われています。そのためたくさんのアイヌとの交流があり、蝦夷地に大変詳しくなったようです。武四郎が残した記録は、アイヌの地名の由来を紐解く上で、またアイヌの文化がわかるものとして、貴重なものとなっています。
松浦武四郎は3回北海道に渡ったのち、1855年に江戸幕府から蝦夷地の調査を命じられます。これは北方の安全を危惧した幕府が、蝦夷地の開拓のために命じたものです。
蝦夷地の開拓の際には、特に明治時代以降、アイヌへの迫害が行われていたことはよく知られています。しかし武四郎はアイヌの人々や文化を尊重していました。松前藩による圧政の状況も知る中で、第一にやるべきことはアイヌの文化を守ることだと主張していました。
武四郎が蝦夷地に渡ったのは全部で6回。先の3回と、江戸幕府から命じられた後の3回です。北海道の本島だけでなく、樺太まで調査を行なっています。
「北海道」の名前の由来
武四郎は5回目の蝦夷地訪問(1857年)のとき、石狩川や天塩川の調査を行いました。その際、現在の音威子府(おといねっぷ)村筬島(おさしま)付近のコタン(アイヌの集落)で、「カイナー」という言葉を聞きました。その意味を問うたところ、「カイ」は「この地に生まれた人」という意味、「ナー」は敬語であることを教えてもらい、この「カイ」を使って「北加伊道(ほっかいどう)」という名前を思いついたと言われています(諸説あります)。アイヌの言葉、それも「この地に生まれた人」という言葉を使うあたりが、アイヌを尊重してきた武四郎らしさを感じさせます。
このコタンがあったと言われる音威子府村筬島の天塩川沿いに、「北海道命名の地」の碑が建てられています。
ちなみに、北海道の名称案には「北加伊道」のほかに「日高見(ひたかみ)道」、「海北道」、「海島道」、「東北道」、「千島道」の全部で6つをあげていました。結局「北加伊道」の「加伊」を「海」に変更して採用し、北海道という名前となりました。