札幌市時計台は内部見学必須!歴史を知ればがっかりしないはず!所要時間は1時間!

札幌を代表する、いや北海道をも代表する観光地のひとつ、札幌市時計台。札幌市時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」なのですが、もう「札幌市時計台」、いやもっと短縮して「時計台」と呼べばOK、それくらいの知名度を誇る札幌市のシンボルです。

目次

「時計台」は北海道開拓の象徴

札幌時計台の歴史

「旧札幌農学校演武場」という正式名称の通り、時計台はかつての札幌農学校の演武場として建設された建物です。札幌農学校は、現在の北海道大学の前身で、明治時代に北海道の開拓のため、その技術者の育成を主な目的として作られた高等教育機関です。北海道という広大な大地に適した西洋式農業のほか、工学や英文学、動物・植物学も教えられ、北海道開拓を大きく前進させました。その卒業生には、内村鑑三や新渡戸稲造などが名を連ねています。

札幌農学校での教育は当時の日本で教えられていた内容とは一線を画すもの。教えられた技術は西洋式のものです。そしてもちろん指導者も西洋の技術者たち。その中の一人が、かの有名なウィリアム・スミス・クラーク(「クラーク博士」)です。当時の日本は、欧米列強に追いつくため、西洋の文化を積極的に取り入れていましたが、北海道開拓ではその傾向が特に顕著です。北海道という広大な大地を前に、「今までの日本式の開拓では通用しない」という思いが強かったのでしょう。

そんなわけで、札幌市時計台もガッツリ西洋建築。街中に突然現れる西洋建築は、長い歴史と風格を感じさせます。まさに時計台は、西洋の技術から北海道を開拓した「北海道開拓の象徴」、いうならば「今の北海道の原点」なのです。

演武場建設の理由

札幌農学校の施設として演武場が作られたのは先述のとおりですが、札幌農学校に「演武場」が必要だった理由も追記しておきましょう。北海道開拓に従事した屯田兵は、北海道の開拓を進めながらも国防の役割も担っていました。そういった意味で、北海道の開拓は国防とセット。有事の際に札幌農学校の学生が屯田兵の指揮をとれるよう、兵式訓練をする施設が必要とされていたのです。実際、この演武場は、入学式・卒業式などの式典のほか、兵式訓練や体育の授業で使われていました。

時計は後から設置された

ここまで、札幌農学校の演武場が作られた経緯を説明してきました。しかしここまでの話では、「演武場」の建設の話であって、メインであるはずの時計の話は出てきません。実は時計は、演武場の完成直後にはなく、後からとりつけられたものなのです

農学校内の時計塔設置は別の計画としてありました。札幌農学校のホイーラー教頭は、1878年に塔時計を注文し、鐘楼に設置しようとしていましたが、その時計機械がいざ到着してみると大きすぎて設置できないことが判明。代わりに他の建物に設置することが検討されましたが、ホイーラー教頭の強い意向により、演武場にその塔時計が設置されることになりました。設置工事が終了し、その時計が運用され始めたのは1881年のこと。演武場の完成は1878年のことでしたから、時計がついたのは完成から3年ほど経ったときのことです。

北海道大学内にないのはなぜ?

時計台があるのは、札幌駅の南、大通公園と札幌駅の間の、大通寄りです。

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この記事を書いた人

道外出身・道外在住大学生。
小学生のころから北海道の魅力にとりつかれ、北海道旅行回数は30回超。
詳しくは「ご挨拶」ページを参照。
2024年5月25日Xアカウント開設。

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