小樽は、北海道を代表する観光地の一つでしょう。札幌からもほど近く、小樽自体が訪れやすいため、非常に観光客が多い街です。「小樽運河」などは非常に人気ですね。
しかし、なぜ小樽運河があるのか。小樽はなぜ発展したのか。なぜたくさんの歴史的建造物があるのか。その答えを知っている人は、そう多くないに違いありません。
明治時代に置かれた開拓使
小樽の話をする前に、まず北海道開拓の話から入りましょう。江戸時代までは、北海道は先住民のアイヌ民族が暮らす土地で、ほぼ未開の地でした。しかし、北海道内に埋まる石炭などの資源活用や国防の観点から、明治時代になると明治政府は北海道の開拓を急ぎます。そこで開拓を指導する機関として置かれたのが開拓使(かいたくし)です。開拓使について、詳しくは以下の記事で紹介していますので、ぜひこちらもどうぞ。

さて、そんな開拓使は、北海道開拓の拠点を札幌に構えました。当時栄えていた函館ではなく、何もない未開の地であった札幌に置いたのは、北方に開拓を進めやすい地の利があったからです。この点について詳しくは以下の記事に書いていますが、当時北海道内で栄えていたのは本州に近い函館周辺であったのにも関わらず、今後の北海道全体の開拓のしやすさを考えて、当時「本当に何もなかった」札幌に北海道開拓の拠点を構えたのです。

ここで考えてほしいのですが、何もないところに拠点を置くとはどういうことなのか。札幌は当時、以上の記事で書いてある通り、本当に何もない場所です。家もほとんどなければ、道路も基本的にないに等しいですし、鉄道ももちろんありません。開拓の拠点とするためには、本州から何かしら資材を運んだり、人を運んだりしないといけないわけですが、それができるような交通インフラが全くない場所なのです。
では、函館から札幌まで立派な道路を整備するのがいいでしょうか。それは建設にも時間がかかりますし、仮に道路を整備したところで函館から札幌はものすごく遠いです。当時は北海道の開拓が急務であったわけですから、こんな呑気なことはしていられません。では、何もない札幌にどのように人と物を運ぶのか。その答えは「船」であるわけです。
「札幌の港」として最適な小樽の地の利
とは言っても、札幌は海に面していません。そこで白羽の矢が立ったのが、札幌に程近い漁村であった小樽だったのです。小樽にはすでに漁港があり、アイヌ民族が住んでいて、漁業の拠点となっていました。こんなわけで、小樽の港に船をつけて、札幌に資材を運び込むといった流れになったわけです。
今の感覚では、それでも札幌と小樽は40kmほど離れているわけで、もっと札幌の近くに港を作れよ!と思ってしまいますが、当時は港湾を整備する技術も発達していませんでした。したがって、人間が大きく手を加えなくても「天然の良港」である場所が求められたのです。小樽は石狩湾に面していますが、その中でも小樽付近は風の影響を受けにくく、波が比較的穏やかで、まさに天然の良港でした。北海道は、特に冬に日本海側から強い風が吹くため、風の影響を受けにくい小樽の地形は、港として最適だったのです。

ほら、こうやって地図で見てみると実感できますよね。小樽は海に面していながらも陸地に囲まれるような位置関係にあり、綺麗に海風を避けられる場所にあるのです。
港町として発展した小樽
本州と札幌を結ぶ架け橋に
小樽は、「札幌の港」としてその役割を確立し、どんどん発展していきます。開拓が進んでくると、小樽港の役割は札幌にヒトやモノを運ぶだけにとどまりません。北海道内、主に空知地方で取れた大量の石炭を札幌に運び込み、それを小樽港から本州に輸送する、そんな役割でも使われるようになります。北海道内で最初に鉄道が敷かれたのはここ「札幌〜小樽」の区間なのですが、これは札幌〜小樽が都会だったのではなく、札幌に集まった石炭を小樽港経由で本州に運ぶために敷かれた鉄道、という側面がほとんどです。現代の感覚だと、「札幌〜小樽」の鉄道が本州と北海道を結ぶ架け橋だったなんて想像もつかない話ですが、北海道内の道路も何も発達していなかった当時は、陸の孤島の札幌周辺と本州を結ぶのは小樽港経由がメインルートだったのです。面白いですよね。

北海道で最初に敷かれた線路は今はもう使われていませんが、小樽の街中にはまだその遺構が残っています。
西洋文化と西洋式金融都市
さらに、小樽は港が発展したことにより、海外からも文化が入ってくるようになりました。小樽にガラス屋さんがあったり、西洋式のハイカラな建築、あるいは石造りの倉庫などが目立つのはこのためです。この辺りは、同じく港町として発展した函館に似ていますね。函館も港町で栄えたため、西洋式の建築が目立ったり、ガラス製品などが有名だったりします。

函館と小樽で違うところを挙げれば、小樽の方は西洋型の「金融都市」としての側面を持っていたことでしょうか。明治時代から大正時代にかけて、小樽には銀行・商社などが集中し、その名残は今でも街中に残っています。なぜ金融都市となったのか、ということについては、先ほどの話と深く関係します。物流の拠点だったからですね。大量のモノが取引されていた小樽は、当然商人同士の決済や会社への支払い、輸送費の支払いなど、金融系の取引も膨大だったのです。金額もとてつもない額のやり取りになりますから、西洋式の金融システム、為替や融資・手形などがバッチリ浸透したということです。
小樽運河は港の効率化のために生まれた

さらに、有名な小樽運河についてもここで書いておきましょう。小樽運河ができた理由、それは「港の物流量が増えるにつれ、港の処理能力を向上させる必要があったから」です。小樽港は確かに天然の良港でしたが、それでも元は小さな漁港です。小樽港自体は遠浅、すなわち港付近の水深は浅く、大きな船の寄港ができるようにはなっていませんでした。
そこで、小樽港ではどのようなことが行われていたかというと、大きな船は沖合に停泊させ、大きな船と港の間を小舟で繋ぐということです。どう考えても非効率ですよね。大きな船から直接陸地に荷物を下ろすことができず、まず小舟に移し替えて、小樽の陸地に運んでくるということです。こんな非効率な方法では、物流量が多くなっていったら立ち行きません。
これを解決するために作られたのが運河です。海を埋め立てて運河にし、運河のすぐ脇には倉庫を並べ、大型船から直接倉庫に荷物を出し入れすることができるようにしたのです。イメージとしてはこんな感じです。

運河がない時だと、沖合の船から小型船で陸に荷物を運ばないといけませんが、沖合を埋め立てて運河にすることで、大型船から直接倉庫に荷物を下ろすことができるようになったのです。この画期的な運河は港の輸送効率を飛躍的に高め、小樽を物流の拠点として、そして金融都市として、ますます発展させる起爆剤になりました。
現代ではかつての役割は失った
ここまで読んでいただければわかる通り、小樽が栄えたのは本州と札幌を結ぶ「中継地点」として、ヒト・モノ・カネが行き交う場所だったからです。では現在の小樽はどうでしょう。
本州と札幌を結ぶヒトの移動は、もはや小樽ではなく新千歳空港がその役割を担い、モノの移動だって室蘭港からの船や、青函トンネルに頼っています。カネの移動も多様化し、もはや小樽に、本州と札幌を結ぶヒト・モノ・カネの中継地点としての役割はほとんどありません。
だからこそ、小樽にある歴史的建造物は、現在使用されていない小樽運河をはじめ、日本銀行旧小樽支店、旧三菱銀行小樽支店、旧安田銀行小樽支店、旧第一銀行小樽支店など、「旧」がつくものばかりで、現在は使われていない施設ばかりです。ある意味で小樽は、北海道を代表する観光地で北海道を代表する都市でありながら、昔栄えた歴史の遺構が、蝉の抜け殻のようにただ静かに残っている町、ということもできます。北海道内でも特に人口減少が甚だしい場所でもあります。

「旧安田銀行小樽支店」

「旧第一銀行小樽支店」
しかし、小樽は観光都市として大きなポテンシャルを秘めています。小樽運河は何度行っても楽しいですし、堺町本通りの街歩きは北海道内でもトップクラスの楽しさだと思います。そして街を歩けばすぐ歴史的建造物に当たります。観光地として重要なグルメも、寿司屋通りや小樽三角市場など魅力たっぷりです。


(小樽運河)
(堺町本通り)
(寿司屋通り)
(三角市場)
すでに世界的な観光地の小樽ですが、観光すると何度行っても飽きない本当に面白い場所です。ただ「小樽で有名なのは運河!この通り!なんか歴史的な建物!寿司!よし行こう!!!!!」では小樽の本当の面白さには気づけません。そして、多くの観光客がこういった観光の仕方をしているのも事実です。しかし、この記事で小樽の歴史を知った皆さんは、他の観光客とは一味違い、きっと小樽の本当の面白さに気付けるポテンシャルを手に入れてくれたのではないでしょうか。小樽ってこんなに面白いのか!そんなふうに思ってもらえるきっかけにこの記事がほんの少しでもなれたのなら、嬉しい限りです。

